Geeklog Site http://ho-gas.com Another Nifty Geeklog Site sn3@ho-gas.com sn3@ho-gas.com Copyright 2009 穂ガスドットコム Geeklog Sun, 20 Dec 2009 08:00:47 +0900 ja ピアノソナタ第21番変ロ長調D960 http://ho-gas.com/article.php/20091220063926482 http://ho-gas.com/article.php/20091220063926482 Sun, 20 Dec 2009 06:39:26 +0900 シューベルト <p>晩年のピアノソナタ3部作(d958、d959、本作)の最後を締めくくる作品で、シューベルトにとっても最後のピアノソナタであり、「遺作」なんていわれてたりする。<br />遺作とか、未完成とか、他にもあるし紛らわしいんだけど。</p> <p>シューマンが「天国的な長さ」と評したのはハ長調交響曲第9番「ザ・グレイト」(D.944)だったようだが、何故かこの曲も「天国的」と評されているケースが多いような気がする。<br />元々、「天国的~」というのは誉め言葉ではなくて「退屈~」という含みさえあるかもしれない。<br />シューマンがそういった含みを持って「グレイト」を評したのかは定かではないし、さほどシューマンに興味もないので、「シューベルトは天国的なのか?」ということについても興味がない。。<br />しかし、シューマンの意図はともかく、シューベルト=天国の図式はひとり歩きしてしまったような気がする。<br /><br />村上春樹氏が『海辺のカフカ』の中で、「不完全で天国的に冗長で、すべてのピアニストが例外なく二律排反の中でもがく」と、登場人物に評させているらしいのだが、それとて読んだわけでもなく、それはどうやらピアノソナタ第17番ニ長調(D.850)の第2楽章のことみたいなんだけど、噂というか、元の情報が彎曲しているケースはネットのlogに限らない。<br />人間という生き物は悲しいもので、そういわれるとどうしてもそう聞いてしまうのである。<br />私も例外ではなく、この冗談のように長い第一楽章を聞く前からそういう意味での天国的刷り込みイメージが最初からあった訳である。<br />だから低音トリルに対して納得がいかず、おそらく・・・多くのピアニストも納得がいってないんじゃないだろうか、なんて思ってしまったりした訳である。<br />(私はピアノ弾きませんので・・・単なる妄想の域を出ませんが)<br /><br />おそらく21番は偉大なる失敗作、不完全なつぎはぎだらけの曲なのか、ビートルズのアルバム「アビーロード」のようなものか、なんて思っていたりした訳である。<br /><br />イメージとしては、死を意識したシューベルトがその痛みの中でときおり痛みが和らぐ際に、天に昇るかのように安堵し、今までの記憶、後悔、懺悔、楽しかった思い出、そして美しい思い出が霞みつつある意識の中で、走馬灯のように噴出する。しかし左手のトリルで表現された痛みによって現実に戻される、「自分はまだ生きている、そして苦しんでいる」と。<br />まあ、こんな解釈をしていた訳である。<br />しかし、こんな解釈だと、第一楽章以外は説明がつかない。<br />そこで先の村上春樹氏ではないが、多くの人はシューベルトのソナタは不完全で、完璧ではない、という説によって納得をするのだろう。<br /><br />しかし、先日夜中にipodでこの21番を聞いていた際、唐突に、それらの解釈は間違っていたのではないだろうか?と気づいたのである。<br /><br />このソナタの一貫したテーマは、「残響」あるいは、「ディレイ効果(音を遅らせて反復再生すること)」なんである。<br /><br />そして、この反復の遅さは、「天空」つまり気体ではなく、液体、ようするに、「水面」低音トリルは「波紋」だろう。<br /><br />イメージは、「湖」だろう。<br /><br />この解釈によって、全ての楽章が統一される。<br /><br />第一楽章<br /><br />変ロ長調って変。この残響効果、救急車や列車などで実感出来る様に、遅れた音が自分の耳に到達し、通り過ぎていく際には音は低くなって聞こえるのである。この曲は天国的というよりも、アインシュタインの相対性理論的である。<br />テーマは「水」、(しかも湖)なので、時間の遅れ表現する上で、この長さが必要なのであって、これ以上短くすると「単なる美しい曲」に成り下がってしまうのであろう。<br />とにかく長い。<br />しかし、湖のほとりを歩いているとイメージしてみれば、全く退屈はしないはずである。<br />とにかく、この曲は天空を目指して上昇したり、落下したりする曲ではない。<br />ゆっくりと長い時間をかけて、何かが水面を進んでいるのである。<br />波のない、穏やかな、美しい曲である。<br /><br />そして第2楽章。<br />これほどまでに沈痛な曲は少ないと思う。<br />あまりにも痛いイメージが先行してしまったので、以前はあまり聞きたくなかった。<br />しかしそれは先の、「天空」に昇る前の痛み、いわば「最後で最大の痛み」を無意識的に連想していたからである。<br />実際には、この曲のテーマは「夜の湖」なのである。<br />痛みではない。<br />第一楽章同様、穏やかで美しい。<br />そして怖い。<br />それは未知なものに対する恐怖であり、神秘的な恐怖だろう。<br /><br />第3楽章<br />中途半端に可憐な曲?<br />いや、これは中途半端な曲ではなく、知的な幼さに関わる曲なのである。<br />子犬のワルツではない。大人の女性、湖畔のデート。<br />実際にデートしたかは定かではないが、火遊びならぬ、水遊びであろう。<br />残響効果、フラッシュバック効果というか、反射、エコー、音の山彦効果を存分に発揮させるためにはテンポを守らなくてはならない。<br />名演は少ないような気がするが、この第3楽章と次の第4楽章はテンポが守られていさえすれば、本当に美しく、計算された技巧的な曲なのであるが。<br />どうも第一楽章でバテてしまっている演奏家が多いような気がするのは私の聞きまつがいであろうか。<br />シューベルトは曲を作る際に誰かインスパイアされたモデルがいるんだろうなと思うのである。<br />そして、そのモデルの女性の美しさと脆さ、可憐かつ稚拙でさえあるその人となりを描き出しているのであって、曲の完成度が低いというよりはその女性の完成度が低い?訳である。<br />しかし、シューベルトはおそらく、そういった不完全な人間らしさを含めた全てを描き出すことによって、全方向性の愛というか、そういった表現をしたかったのではないだろうか。<br />当事者的に受け入れられたのかは不明。<br />(似顔絵は似ていないから受け入れられる)<br /><br />第4楽章<br />変な曲である。<br />イントロドンで言えば即興曲(d899)第1番ハ短調と間違えるが、変ロ長調なんである。<br />これは、Wikipediaによればベートーヴェンの作品130弦楽四重奏曲の第二のフィナーレ冒頭の変形であるらしいが、元の曲を聴いたことないのでなんとも。<br />一貫したテーマの水、(湖)は凍っているかのようでもあり、左手の伴奏はスケートの進行、もしくはアメンボのように右左に進んでいるかのようだ。<br />左手の主旋律はぎこちなく、犬の散歩のようでもあり、転げているようでもある。<br />しかしその後の展開はドラマチックで、まるで突然にオーケストラがやってきたかのようだ。<br />降り注ぐのは花びらなのか、雪なのか、雨なのかは判らないが、人間の情動を超えた何か、自然の力みたいなものを感じずにはいられないのだが、やはりここでもシューベルトは最終的に人間的な情念で持って、超越的な美しさを台無しにしてしまう、と思うのは私だけであろうか。<br />19番第四楽章の悪夢の再来、原型は「さすらい人」なんだろう。<br />それゆえにある意味、演歌的なのか?人気の秘訣なのか?知らないんだが、これはこれで素晴らしいんだが。<br />洗練された無骨さというか、知的なブ男というか(失礼)<br />とてつもなく繊細で感傷的かと思えば、それを平然と踏み躙る不器用さ、だからモテない?<br />やっぱりシューベルトはココロのボスなんだな~と思う(謎)<br /><br />最後の大作みたいに考えるといかがなものかというのはつきまとうとしても、別にシューベルト自身がこのピアノソナタを「遺作」として書いた訳でもないだろうし、これも残された人たちが創り出した勝手な刷り込みなんである。<br /><br />&nbsp; 最後の遺作として盛り上げてしまうと、「不完全」かもしれないが、残響効果を実験的にチャレンジした意欲的な職人芸と考えれば、シューベルトは後世に残るものすごく良い仕事をしたんだと思うのであった。</p><p>&nbsp;</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091220063926482 個の不安 http://ho-gas.com/article.php/20091027130032999 http://ho-gas.com/article.php/20091027130032999 Tue, 27 Oct 2009 13:00:32 +0900 乳幼児期~ <p>死の恐怖に関する概念の発作が治まってきてもなお、私には自分と他人の区別にかかわる謎が解決したわけではなかった。</p> <p><br />自分の視界、いわゆる両目で見た、視界。<br />そこの先に見えているものは、いったいなんだろうということ。<br /><br />それは私の意とは関係なく動き、活動し、何を考えているのかわからない。<br />それなのにも係わらず、それらは私を放っておいてくれるわけでもなく、時には私に係わり、時には私を攻撃する。<br /><br />自分には何故、それらをコントロールすることが出来ないのか。<br />母にしても、兄にしても、味方のように思えるが、何を考え、行動しているのがが判らない。<br />彼らは私が考えていることもわからないのだろうか。<br /><br />自分と、自分以外は何が違うのだろう。<br />自分の意思が働いて意のままにコントロール出来る範囲は、どこまでなのか。<br /><br />逆に、彼らは私が何を考えているのか、本当は判っているのかもしれない。<br />私の行動はすべて見透かされていて、密かにあざ笑われているのではないだろうか。<br />私を支配する、神のような存在はあるのだろうか。<br />なんで私は自分のことだけ判り、自分の肉体を持ち、考えたり、見たり、聞いたり、匂いを嗅いだりするのだろうか。<br />なんのために?<br /><br />鏡を見れば、そこには下界に映し出される際に見ることの出来る人間、勿論同じではなく、固有の生き物が映し出され、これがまぎれもない自分だということは納得が出来た。<br /><br />しかし、自分も他の人間と同じであるとしても、自分一人だけが自分のことを理解していること、その個体をコントロールする権利と義務を持っていること。<br /><br />そして第三者の係わりをどう対処して生きていけばいいのか。<br />その指標となる何か、自分操作マニュアルのようなもの。<br />そういう観念もなしに、これから先何をしていけばよいのだろう。<br />こういうことがずっと不安だったのである。<br /><br />私は喘息持ちだった影響が大きいのかもしれないが、常に自分が空気の中に埋没していることに気づいていた。<br /><br />それゆえ生きていることも知っていたし、空気中に飛び交う物質により気管支が収縮してしまうことも気づいていた。<br /><br />しかし、その物質から身を守る方法は?<br /><br />水に埋没すれば窒息することは知っていたが、空気中の毒が多くなれば、それだけで死ぬのだ。<br /><br />そんな不安定な世の中に生きなくてはならない宿命に愕然とした。<br /><br />しかし、命とは大小もあるが、時間の経過の中で長短もあることも知っていた。<br /><br />たとえば私が腕を振り回した際に、その空間に生きていた微細な宇宙は粉々に砕け散るが、その直後にも再び別の再生をするのだ。<br />その間に凄まじい量の生死が存在しているのだが、そんなことに気づかないほど、時間の経過が早かったり遅かったりするのである。<br /><br />これらの概念はおそらく<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC" target="_blank">スーパージェッター</a>の影響だと思う。<br /><br /><br />そして世の中はテレビの中のように理路整然と機能していなくて、矛盾だらけであることにも薄々気づきはじめていたが、何故矛盾が生じるのかなんてことは皆目検討もつかず、毎日不安の中で生きなくてはならなかった。</p><p>とはいえ、私がそれらに向き合い、対処しようと鋭意に努力していた訳ではなかったので、日常はテレビを見たり、無機質な(反応がダイレクトに伝わってこないことが経験的に判っている)空気や景色を感じてその中で漂って遊んだり、動作性のある事柄(人、動物など)については無関心を装ったりして過ごした。</p><p>そういう部分では一般的な子供、定型の子供とは少し違って見えたのかもしれない。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091027130032999 描画 http://ho-gas.com/article.php/20091027114837128 http://ho-gas.com/article.php/20091027114837128 Tue, 27 Oct 2009 11:48:37 +0900 場面緘黙な幼児期 <p>私は絵を描くことが出来なかった。<br />正確に言えば、典型的な絵の描きかたを知らなかった。</p> <p><br />私は紙に鉛筆で何かを描くことは小さい頃から好きだった。<br />しかしその描きかたは、Typicalな子供が身につけている描き方とは少し変わっていたかもしれない。<br /><br />私は連続した円を延々描いた。<br />ぐるぐると描いた。<br />ずっとぐるぐる書いていると濃いところや薄いところが出来てくる。<br />そうすると何かの形に見えてくる。<br />車に見えてきたら「くるまをかけた!」ゾウに見えたら「ゾウをかけた!」と言っていたのだ。<br />逆に言えば、何かを書くということがよく判らなかったのだ。<br />幼稚園で困ったのは、テーマに沿って絵を描くという意味が判らなかったし、自由に何でも書いていいという&rdquo;暗黙のルール&rdquo;の意味が理解出来なかった。<br />私に欠けていたものは、外部の事象を一度脳の中に取り込み、それをTypical(典型に)処理してから表出する行為、いわゆるインプットとアウトプットの処理能力だったのだろう。<br /><br />私は他の子たちが描いている絵を盗み見た。<br />その子は絵を見られないように隠した。<br />「見ないでよ!」<br />「先生、〇〇ちゃん(私のこと)がマネします!」<br />先生は言った。<br />「〇〇ちゃん、人の真似じゃなくていいのよ、自分の好きなように描けばいいの」<br />私は好きなように描いた。<br />私の絵を盗み見た他の子が言った。<br />「あ~!描き方が違う!」<br />私は絵を隠した。<br /><br />そして、私は幼稚園で絵を描くことが出来なくなった。</p><p>たぶんそれがきっかけで、母は私を絵画教室に通わせることにした。<br /><br />絵画教室は老夫婦が運営しており、二人とも優しかった。<br />私と同年代の子供も、小学生くらいの大きな子もいたが、生徒間の干渉は全くなかったので居心地はとてもよかった。<br /><br />先生は絵の描き方を教えてくれた。<br /><br />先ず、静物を見て、その輪郭を先ず大まかに写した。<br />大きさは鉛筆で片目で見て測り、それを画用紙に当てはめて写せばプロポーションが壊れず、ある程度正確に写せることも習った。<br /><br />ある程度の下描きをした後、そこにクレヨンで色をつけた。<br />クレヨンの色も薄く書けば紙の色と混ざり薄くなり、濃く描けばクレヨンの色に近づくことが判った。<br />色を重ねると混ざること、暗い色、明るい色があることも教わった。<br /><br />私は植物、とりわけ木の枝を描くのが上手だと誉められた。<br />誉められれば嬉しかった。<br />私は何故、自分が他の子よりも木の枝が上手なのかが気になった。<br /><br />他の子の絵を見ると、他の子は目がよく見えないのか、描くのが面倒だったのかは判らないが、木の枝を一本一本描いている子は一人もいなかった。<br /><br />ただそれだけのことだった。<br /><br />しかし、その時私は他の子よりも勝っている部分を自分の中に見出し、その客観的な第3者の評価に興奮した。<br /><br />私は幼稚園で絵を描いてみた。<br />成果を試してみたかった。<br /><br />そこで待っていたのは、賞賛ではなく、それほど以前と変わらなかった。<br />「あ~描き方が違う!」<br />「自由に描かなきゃいけないんだよ!」<br />「先生!〇〇ちゃんは言われたとおりに書いていません!」</p><p>そこで求められていた絵とは、抽象的な、ある意味子供らしい、たとえば線だけで書かれた人間、赤い太陽、緑色の山、水色の川など。<br /><br />私は写実的なデッサンをするために、鉛筆で下書きを始めてしまったのだ。<br />その時、先生は何と言ったのだろう。<br />たぶん、何か私をフォローすることを言ってくれたと思う。<br />「こういう絵の描き方もあります」とか、「〇〇ちゃんは絵を習っているの」とか「この絵は本格的なの」とか。<br /><br />しかし、多くの子は私が自分たちより勝っていることに我慢がならなかったのだろう。<br /><br />次の時間、私の絵には上履きの跡がついていた。<br /><br />それについては先生も何も言わなかったし、私はそういう表出をする子達の仲間でいることが悲しかったが、その事態を変える方法も知らなかった。<br /><br />ただ、先生に従順な一部の子達は、私に対して「すごいね」など言ってくれたような気がする。<br /><br />踏みつけられたが、その後も私は作品を描けるし、腕でも折られなければいくらでも描けた。<br />また、腕を折られたとしても、脳が憶えているかぎり足でも口でも描けたはずだ。<br /><br />私は一つの事柄で、典型的な同年代の子達よりも勝ったのだ。<br /><br />この時の優越感は、私の将来に大きな影響を与えることになったと思う。<br /><br />&nbsp; その事件で、私は典型的な子供が描く子供っぽい絵の定義についても学んだ。</p><p>そして、「わざと下手に描く方法」も独学で身につけたのだ。</p><p>絵が描けるようになると、絵画教室は卒業となった。</p><p>私とすれば残念だったが、習い事はお金がかかるものだから仕方がなかったし、数ヶ月でも習い事をした経験は何にも代え難いものであり、感謝するべきものだったと思っている。</p><p>この習い事で得た自信がなければ、後にデザイン学校に進学することもなかったと思うし、自立心も生まれなかったかもしれないのだから。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091027114837128 自身を公開するということ http://ho-gas.com/article.php/20091026200057301 http://ho-gas.com/article.php/20091026200057301 Mon, 26 Oct 2009 20:00:57 +0900 Goodbye Typicals World <p>ところで、私はこの自伝のような文章を公開することに対して、何を求めているのだろうか。</p> <p><br /><br />人は何故、自伝を書くのだろう?<br /><br />それはおそらく、自分を認めてもらいたいという行為に他ならないのではないだろうか。<br /><br />至らない点は反省し、至るまでの道程を書き記し、それを持って自己満足、いや、そのような自分を読み手に対し認知してもらう過程において、慰めになるということなのだろうか。<br /><br />あるいは、自らの生き様を若輩に参考にしてもらいたいという思いからなのか。<br /><br />だとすれば、自伝は自慢出来るような人生を送っている人が書くものということにはならないだろうか。<br /><br />恐れ多くも私は自分の半生を自慢できるものだとは思えないし、むしろそのうちの殆どの事柄に未だ乗り越えていない壁のようなものを感じている。<br /><br />年齢を重ねれば重ねるほど、新たな問題が出てくるようにも思える。<br />というよりも、むしろそれは当たり前なのではないかとも思う。<br /><br />試練の山というものがあったとすれば、先に行くほどきつくなる。<br />当然といえば、当然だ。<br /><br />ならばやっぱり「自伝を書くという行為」は、今まで乗り越えてきた試練を書き連ねて、そこまで達していない若輩者たちの尊敬を勝ち取りたいということに繋がるのではないだろうか。<br /><br />いや、実際にはそうではない。<br /><br />先ず一つに、私はこれら恥ずかしい半生を書き連ねることによって、私自身が未だに突き止めることの出来ない問題、すなわち「私は何なのか?」ということについて、判断を仰ぎたい。<br />この、考えようによっては惨めな告白を読んでいただいた皆さんの意見が全て正しいとは、失礼ながら全く思っていない。<br /><br />しかし、人の意見は参考になる場合も多々ある。<br /><br />私がここで過去をさらけ出したとしても、私と係わってきたこの文章の登場人物は恥を書くかもしれないが、それも私の匿名性がある程度確保されているとすれば、大した問題ではないかもしれない。<br /><br />ならば公開することとしないことを秤にかければ、公開した際のメリットが勝るかもしれないではないか。<br /><br />また、もう一つ、もし仮にこの文章に関して著作権が生じるような場合に、私自身にも印税生活が期待出来るかもしれない。<br />そこまで至らないとしても、これを読んだ人が、アフィリエイトタグを踏んでくれるなら、レンタルサーバー代金くらいは出るかもしれないし、上手く行けばアルバイトに出なくても済むかもしれない。<br /><br />そんな想いから書き連ねているというのが本音である。<br /><br />奇麗事をいうのはTypical World(典型的な世界)に済む人に任せようと思う。<br /><br />少なくとも私はAtypikal(典型的でない)ことを認める代わりに、正直に話す権利が欲しいのである。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091026200057301 鬼歯 http://ho-gas.com/article.php/20091026190737199 http://ho-gas.com/article.php/20091026190737199 Mon, 26 Oct 2009 19:07:37 +0900 プロローグ <p>母の自慢は、戦争中でも甘いものに不自由したことがないということだった。</p> <p><br />そんな母は30代で既に入れ歯だった。<br />歯の質が悪かったのかもしれないが、昔は歯を磨く習慣が現代のようになかったのもあるだろう。<br /><br />しかし一方で私は「貧富と虫歯」は密接な関係があるような気もしていた。</p><p>お金持ちの子は虫歯がなかったからだ。<br /><br />私が「鬼」、「ドラキュラ」などのニックネームで呼ばれたのも、虫歯のせいもあったろうし、歯並びの悪さもあったと思う。<br /><br />笑って自分の歯を見られるのは嫌だった。<br /><br />子供の頃、虫歯の痛みに耐えられず泣いて過ごしたことは何度もあった。<br /><br />それでも母は中々私を歯医者には連れて行かなかった。<br />たぶん、治療費が高かったからだと思うが、私が歯医者に行くことを嫌がったのもあるかもしれない。<br /><br />小学校3年の時だったか、私は永久歯の前歯が乱杭になっていて、見た目が酷かったため、私は母に文句を言った。<br />「なんで自分だけこんな歯並びなんだ!」って。<br />母は私を歯医者に連れて行った。<br />その歯医者はとても無愛想で、私の口を一通り調べた後、おもむろに注射器を持ち出した。<br /><br />私は凍りついた。<br /><br />「口をあけて」<br /><br />私は口をあけなかった。<br /><br />歯医者はウンザリとした態度で、母を呼び、「これじゃあ治療できない、口をあけられるようになってから出直してくれ」と言った。<br /><br />母はうなだれて、私はほっとして歯医者を後にした。<br />母は私に言った。<br />「歯並びを矯正するには30万円かかるっていうんだよ。そんなお金はないから、我慢してちょうだい」<br />歯並びが良くなるのが悪いことだとは思わなかったけど、注射されたりドリルで穿られるより、歯並びを我慢するのは問題ではなかった。<br /><br />しかし、この前歯も結局すべて虫歯となり、前歯4本全てが差し歯になる高校の時点まで、私はまともに笑うことは出来なかったのである。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091026190737199 天然 http://ho-gas.com/article.php/20091026182402960 http://ho-gas.com/article.php/20091026182402960 Mon, 26 Oct 2009 18:24:02 +0900 プロローグ <p>私は生まれついての『天然パーマ』だった。<br />また、私は鼻が高い子供だった。</p> <p>天然パーマで鼻が高い子供でいる間、プラスになることは一つもなかった。<br /><br />私は、閉鎖的な日本の地方のコミューンにおいて、生まれついた外見的にAtypical(非定型)だった。<br /><br />私は誰の子でもないような気がした。<br /><br />実際に憶えている訳ではないのだが、2~3歳の頃、私をつれて歩く母に警察官が「この子はインド人なのか?」と訊ねたらしい。<br />母もそれについてどう思ったのかは知らないが、定型の日本人的発想があるとしたら、自分がお腹を痛めて産んだ子供がインド人に間違えられた際に、喜ぶのだろうか悲しむのだろうか、あるいは、「たしかにそう思う」と納得するのだろうか。<br />私は子供の頃、インド人は知らなかった。<br />知識的にはこの程度。<br />インドじゃないけど。<br /><br /><a target="_blank" href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0b09865d.3c2d2b39.0b09865e.d889f124/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fauc-kanbi%2f4901734002482%2f&amp;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fauc-kanbi%2fi%2f10001546%2f"><img border="0" src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fauc-kanbi%2fcabinet%2f00888287%2fimg56091925.jpg%3f_ex%3d128x128&amp;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fauc-kanbi%2fcabinet%2f00888287%2fimg56091925.jpg%3f_ex%3d80x80" alt="" /></a> <br />いずれにしても、後にそのエピソードを聞かされた私本人はそれが慰めになっただろうか。<br /><br /><br />父方の祖父は少しパーマがかっていたという。<br />しかし、現存している仏壇の写真は、ハゲだった。<br />何の証拠もないことを信じる馬鹿がどこにいるのか。<br /><br />私は犬猫のように捨てられていた子だと思った。<br />拾われてきたことを感謝しなくてはいけないのか。<br /><br />大人になったらカッコよくなってみんなに羨ましがられるからと言っては、母は私の髪の毛を伸ばそうと毎朝櫛で梳かしつけた。<br />髪の毛がブチブチと切れた。<br /><br />「痛い!」<br /><br />「だって梳かさないとグチャグチャだから」<br /><br />「痛いよ!なんでグチャグチャじゃいけないの!」<br /><br />判っていた。<br />カッコ悪いから梳かしているんだ。<br />私だって好きでこんな髪型になった訳じゃなかった。<br /><br />「髪の毛を梳かせばウエーブが出るのよ」<br /><br />私のアイドルは石立鉄男だった。<br /><br /><a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/00efdcea.087ae7dd.0b034f15.ce0ff6a0/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fasahi-record%2f00000509274%2f&amp;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fasahi-record%2fi%2f14230634%2f" target="_blank"><img border="0" alt="" src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fasahi-record%2fcabinet%2f274%2f00000509274.jpg%3f_ex%3d128x128&amp;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fasahi-record%2fcabinet%2f274%2f00000509274.jpg%3f_ex%3d80x80" /></a> <br />しかし、彼がドラマの中で、頭にカーラーをつけているシーンがあって、私は少なからずショックを受けた。<br />なんでわざわざ変な頭にするのか理解出来なかった。<br /><br />髪の毛に係わる私のニックネームは、ゴア、やきそば、タイガージェットシン、サリーちゃんのパパ、鬼など。<br /><br />&nbsp; ゴアを知らない人は「マグマ大使の敵」として検索してほしい。</p><p>天然パーマだった人間と遭遇したのは、小学生の頃、銭湯で、おそらくどこかのブルーカラー系労働者だと思うが、比較的若そうな男だった。</p><p>彼は、「オレも天然パーマなんだよ」と私に話しかけた。</p><p>そのおにいちゃんはカッコよくはなかった。</p><p>しかし、同じ傷を持つものと思ったのに違いない。</p><p>その後も銭湯で会えば「オウ」などと声をかけてくれた。</p><p>その人も、流れ労働者だったのか銭湯で会うのはそんなに長い期間ではなかった。</p><p>私の田舎において、天然パーマで生まれる確率は、「発達障害の出現率」よりも低かったことは間違いなかったと思う。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091026182402960 緘黙(かんもく) http://ho-gas.com/article.php/20091026150945316 http://ho-gas.com/article.php/20091026150945316 Mon, 26 Oct 2009 15:09:45 +0900 場面緘黙な幼児期 <p>幼稚園に何年行っていたのかは憶えていないが、2年は通ったのではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p> <p><br />3年通う子もいたようだが、名札の色が違っていたと思った。<br />あまり多くはなかったような気がする。<br />3年通ってた子は威張っていた訳ではなかったので、たぶんTypical(典型)は2年で、幼稚園に3年通うということはバカにされる何か理由があったんじゃないかと思われた。<br />親が面倒みてくれないとか、家庭の事情とか。<br />しかし当時は幼稚園に行っていない子供も結構いたと思うが、『郷に入れば郷に従え 』という言葉のように、園に入っては多数派に従えということだったのだろう。<br />いずれにしても、私は2年だったが転入してきたという時点でAtypical(非典型)だったということなのだろう。</p><p><br />私は幼稚園生であることがとても恥ずかしかった。<br />少なくとも私は「幼稚」の意味を知っていた。<br />「バカ」ということだ。<br />小学生達が「や~いようち!ようち!」といって知的に遅れのある子を虐めていたのを知っていた。<br />私は自分が馬鹿の集団に属さなくてはいけないことが、我慢ならないほど恥ずかしかったので、幼稚園の帰りには名札を隠して歩いたと思う。<br /><br />ムーミン谷のミイのような鼻をした女の子が、「私のほうがあんたより大きいんだからね!」といって自分のほうが偉いということをあえて誇示しなくてはならない理由は何か、私には検討がつかなかったし、何人かの園児は物珍しそうに私を見ていたのだろうが、その中の数個の目にはあきらかに敵意があったように思う。<br />彼らは何を憎んでいた、あるいは、恐れていたのだろうか。<br /><br />先生は、「新しいお友達よ、みんな仲良くしてあげてね、わからないことは教えてあげて」みたいに私を紹介したと思う。<br /><br />優しい子、優秀な子は、私がやるべきことを全て私の代わりにやってくれた。<br />ありがたいとは思わなかった。<br />その優秀な子は頼んでもいないのに勝手に人の仕事を取ってしまって、自分の手柄にしたいんだろうと思ったからだ。<br />そして、そんな風に何もしない私を見ていて、敵意をむき出しにしてくる子もいた。<br />彼らは私に対して言った。<br />「出来るくせに!」<br />そこには嫉妬の感情もあったのかもしれない。<br />私は私の仕事をとりあげて勝手にやってしまう優等生の子のやることを止めさせ、自分でやったほうがいいのか、あるいは、そうしたらその優等生の子は怒り出すのかが判らなかった。<br />その優等生の子もたぶんそれほど頭がいい訳ではなく、先生に言われたとおりにやっていただけだと思われ、そこに私の存在はなく、私に対して気転を利かせて「あんな奴のいうことなんか気にするなよ!」なんて言えるほど、能力はなかったのだろう。<br />その子は私のやるべき仕事を勝手にやって、私を見もせず、自分の席に帰った。<br />そういうときに自分はどう動けば正解だったのか。<br />この辺は今でもよく判らない。<br />そういうことがあると、その当事者の子の言動には気をつけるようにしたが、最終的には殆ど全員の子に気をつけなくてはならなくなってしまった。<br /><br />彼らは私にちょっかいを出してきた。<br />「なんでしゃべらないの?」「しゃべれないの?」「何かしゃべってみろよ」「あたまわるいんじゃないの?」「ほら、『あ』っていってみろよ、いえないの?いえよ!」<br /><br />私は勿論、言えない訳ではなかった。<br /><br />私は「あ」と言った。<br /><br />彼らは「喋ったよ~!逃げろ~!」と走り去っていった。<br /><br />私は言葉が理解出来なかった訳ではなかった。<br />何を喋ればいいのか判らなかっただけだ。<br /><br />そもそも、彼らと友達になりたいと思っていなかったし、一緒に遊びたいなんて思いも全くなかっただけだ。<br />ただ早く終了の時間になって、園から開放してほしかった。<br />私は毎日幼稚園で何をしていたのかと言えば、後何時間でここから帰れるのかをカウントダウンしていたのだ。<br />なるべく目立たないように、園庭の隅に立ち、他の子供から距離を取り、私はガードマンのように建っていた。<br /><br />女の子が、近くに寄ってきた。<br />彼女はたぶん、知的障害があった。<br />幼稚園で私も喋らなかったが、彼女も喋らなかった。<br />たぶん、彼女は喋る能力がなかった。<br />彼女は、背後から私に黙って近づいてきた。<br />私は彼女が何をしたいのか判らなかったので、そのまま立っていた。<br />彼女は、私をつねった。<br />私は少し逃げた。<br />すると、彼女はまたつねった。<br />私はまた少し逃げた。<br />彼女はまた追いかけてきてつねった。<br />私はまた逃げて、彼女の正面を向いて、身構えた。<br />彼女はゆっくりと近寄ってきて、私の手をとった。<br />そして、私の手の甲に爪をたてて、肉を引きちぎるほどにつねった。<br />私は手を腰の後ろに隠し、彼女の目を見た。<br />彼女は、私を睨みつけた。<br />この子の望みはなんだろう?<br />私は、彼女にとってなんなのだろう?<br />何故、私にそこまで憎しみをぶつける必要があったのだろう?<br />私はとりあえず他の子たちの群集の中に逃げた。<br />彼女も他の子たちに虐められていたので、他の子たちの群集に逃げた私を追いかけてはこなかった。<br /><br /><br />私は一人で幼稚園には行けなかったのだが、母は一人で行ってほしかったのだと思う。<br />私は母に手を引かれて幼稚園に通った。<br />私たちの先に、同じ幼稚園に通う子が一人で歩いていた。<br />その子は私たちに気づいた。<br />その子はTypicalな優等生で、父は柔道をやっていて、その子も柔道を習っていた。<br />その子は母に元気良くあいさつが出来た「おはようございます!」<br />母は言った。「おはよう!えらいね」<br />その子はにっこり微笑んで、その後偉そうに私を見た。<br />私は恥ずかしかった。<br />母は、「ねえ、〇〇ちゃんはあいさつも出来るし、ひとりで幼稚園まで歩いていくんだよ?あなたも出来るようにならないかねえ?」と言った。<br />母は一つのカン違いをしていた。<br />私の問題は幼稚園に一人で行けないことではなかった。<br />私は、幼稚園に行きたくないのだから。<br /><br />先生がいる間はまだよかった。<br />みな、勝手な行動を取ることを規制されていたから。<br /><br />幼稚園についてから、先生が来るまでの時間と、休み時間が地獄だった。<br /><br />彼らは狂ったブタのように私に突進してきたり、髪の毛を引っ張ったり、服を引っ張ったり、私が黙っているのをいいことに何でもし始めた。<br /><br />誰かが小さなクワガタのメスを持ってきていた。<br />「幼稚園に動物持ってきちゃいけないんだからね!」と典型的な優等生の一人の女の子が言ったが、クワガタを持って来た張本人は、優等生を無視してクワガタを積み木の車に乗せて走らせたりして遊んでいた。<br />そこへ典型的な悪ガキがクワガタを乗せた車を掴んだ。<br />クワガタを持って来た子は、「ぼくのだよ、返せよ」と言った。<br />悪ガキは、クワガタの上に、他の積み木の車を落とした。<br />クワガタは白い内臓が出て、動かなくなった。<br />クワガタを持って来た子は泣いた。<br />優等生の女の子は「持ってきたのがいけないんだからね!」と言った。<br />悪ガキもその事態に少し動揺していたと思うが、先生に叱られるのが嫌だったのだろう。<br />「持って来たのが悪いんだ!オレが悪いんじゃない!罰だ!」と言った。<br />私はただ見ていただけだが、クワガタは死んで良かったと思った。<br /><br />少なくとも、早く死んだ分、早く生まれ変われるのだから。<br /><br />でも、そう思っただけで、泣いている子を慰めてはやらなかった。<br />私も「見せびらかすためにクワガタを持ってくるのは悪い」ことだと思っていたし、仮に私が「死んでよかったんだよ」なんて言っても何をいうのか想像がつかなかったし。<br />私もクワガタのように潰されたいわけじゃないし、下手なことをいう勇気はなかったのだ。</p><p><br />大体、彼のことを私は好きじゃなかった。<br /><br />私は誰も好きではなかったのだ。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091026150945316 転園 http://ho-gas.com/article.php/20091026010708186 http://ho-gas.com/article.php/20091026010708186 Mon, 26 Oct 2009 01:07:08 +0900 場面緘黙な幼児期 <p>私は幼稚園を一度替っている。<br />最初の幼稚園は、教会のある幼稚園であった。</p> <p><br />「賛美歌を歌うのが嫌」で通えなくなって普通の幼稚園に移したという。<br />しかし、納得のいかない部分の一つに、兄はその教会のある幼稚園ではなく、私が転入した先の(Typical=典型的な)幼稚園に通っていた。<br />私の親は何故、「賛美歌を歌うのが嫌」になったという幼稚園を私の入園時に選択したのだろう。<br /><br />とにかく私には、何故だか判らないのだが・・・最初の幼稚園の記憶は全くない。<br />何一つ、憶えていない。<br />本当に、通ったのか、園内はどうだったのか、先生は?園児は?全く覚えていない。</p><p><br />そして、次に転園した先の幼稚園の初日、母に手を引かれてその幼稚園の門をくぐって2~3歩の、母と自分の姿はまるで写真を撮ったかのように覚えている。<br /><br />実際に映画かテレビのワンシーンがあったのかもしれないし、誰かが写真を撮ったのかもしれない。<br />私は自分と母を少し離れた数歩後ろの門の外あたりから、自分たちが歩いているのを見ていたのだ。<br />モノクロではなく、カラーで。<br /><br />母は右手で私の左手を握り、私は紺のベレー帽にスモックのような黄色い割ぽう着のように被るタイプの制服を着せられ、肩から青いお弁当かばんをかけ、不安に慄いていたというよりは、一つの堪忍をしたかのように神妙な面持ちだった。<br /><br />母はベージュ系のツーピースで、普段のかっぽう着姿とは打って変ってフォーマルな印象に化けていた。<br />その時の母はテレビで日本国民に手を振る美智子妃のようであった。<br /><br />私はクラスの先生の隣に立ち、その園の私より数日、あるいは数ヶ月「先輩」の子供たちに紹介された。<br />実際には先生の横で他の子達に紹介される私を、私は左斜め上空から見ていた。<br /><br />先生は優しそうに見えた。<br />たぶん真面目な人だったのだろう。</p><p>私は先生という職業の人が何をする人なのか判っていなかったので、とりあえずこの人は味方になってくれる人なんだと思った。<br /><br />しかし同じ歳の「先輩たち」は私に対し敵意をむき出しにし、一部の子は野獣のように歯を剥き出して睨み付けていた。<br /><br />ムーミン谷のミイのような鼻をした女の子が近寄ってきて、言った。<br />「あんたより私のほうが背が大きいんだらね」<br /><br />私はこの新しい幼稚園という場所で緘黙になった。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091026010708186 母方の祖父 http://ho-gas.com/article.php/200910252219061 http://ho-gas.com/article.php/200910252219061 Sun, 25 Oct 2009 22:19:06 +0900 プロローグ <p>母方の祖父は、ざい(在郷)の出身だった。</p><p>城下町に住む人間たちからすれば蔑まされた血筋の出身という差別的含みはもしかするとあったのかもしれないが、空気を読むニュアンスの中で決して直接的に語られることはなかったと思う。</p><p>&nbsp;</p> <p>一つには、祖母が水戸藩の武家の家系であったということにも関係しているのかもしれなかった。</p><p>確かに、祖父の結婚式の写真は田舎のそれではなかったが、その辺の事情を山の中のお城跡に住む町人達が知っていたかは判らない。</p><p>仮にそれを知らなかったとしても、一度は上京し(実際は川崎)一旗あげて家庭を持ち、戦争でやむなく田舎に疎開の後、町に出で家を建て、単身出稼ぎの後、地域の工場で働き、娘を進学させているという時点で、地域社会においてはむしろ見事に成り上がって故郷に錦を飾る新興勢力の一端だったのかもしれない。<br /><br />受け入れるとも受け入れないともつかない位置に、祖父の家、つまり母の実家はあったのだろうか。<br /><br />商店街のボンボンと結婚した母と、同じようにざい出身の、工場勤めの男と結婚した、母の姉とでは世界観が全く違っているような気がしたが、その違いは配偶者によるものか、あるいは役回りによるものか。</p><p>それとて何がいいとか、悪いとかは判らず、一ついえることは、姉妹のどちらかといえば祖父は比較的母の近くにいたのではないかということくらいだった。<br /><br />私にとっても、祖父は特別の存在であった。<br />祖父は必ず道の向こう側から歩いて来た。</p><p>私は祖父が近づいてくるのをずっと見ていた。<br /><br />グレーのスーツにソフト帽でメガネをかけた祖父は、当時私が知っている世界において一人だけ別の生き物のようで、人一倍ノッポの祖父が近づいてくる遠近感の奇妙さにその都度魅せられた。<br /><br />祖父は必ず、「〇〇か?」と私の名前をいった。<br /><br />私は、「おじいちゃん?」といった。<br /><br />祖父はうなずいた。</p><p>私も、うなずいた。</p><p>そして、祖父は去っていった。<br />実際にはそれだけじゃなかったのかもしれない。<br />しかし、私はそれしか憶えていなくて、祖父が突然あらわれて、私の名前を呼び、私はうなずくのだ。<br />それはとても心地よい行為のように思えた。<br /><br />祖父と同じ種類の人間はいないように感じた。<br /><br />祖父は比較的近所に済んでいたが、子供の頃憶えている範囲では私たちの家の敷居をまたいだことは一度もなかった。<br /><br />逆に、祖父の家に母と、私達子供が遊びに行くことは頻繁にあった。<br /><br />磨かれた廊下で、靴下でスケートのようにすべって遊んだ。<br /><br />祖母に叱られ、祖父はいつも黙って笑っていた。<br /><br />祖父は、私を養子にしたいといっていたようだ。<br />しかし、実際にそうはならなかった。<br /><br />それは何故、3人兄弟の中で私をそうしたかったのか、また、何故実際にはそうしなかったのか、判らない。<br /><br />いずれにしても、祖父は私に対して、特別に考えてくれていた唯一の存在のように私も思っていた。</p><p>私は祖父が好きだったし、たぶん祖父も私のことが好きだったと思う。</p> http://ho-gas.com/trackback.php/200910252219061 ざい(在郷) http://ho-gas.com/article.php/20091025192645565 http://ho-gas.com/article.php/20091025192645565 Sun, 25 Oct 2009 19:26:45 +0900 プロローグ <p>私が生まれ育ったのは北関東の城下町だ。<br />城下町とは町名に特有の名前がついた場所がある。<br />鍛治町、倉内町、材木町、上街、中街、下街など。</p><p>&nbsp;</p> <p>下街に私の実家はあった。<br />通りの並びには洋品店、食堂、食料品店、パン屋、花屋、酒屋、カメラ屋、床屋、靴屋、焼肉屋、喫茶店、和菓子屋、時計、眼鏡屋、銭湯、パチンコ屋、映画館などがあった。<br />その中で私の家は中華料理店と、バーだった訳だ。</p><p>商店街の中で飲食業というのはランクが低い商売だ。<br />水商売という言葉がある。<br />勝負は水物、水は低いほうに流れる。<br />母はよく、「食べ物屋は一番景気に左右されないんだ」と言っていた。<br />おそらく、母なりの弁明だったのだろうと思うし、実際に商店街が事実上崩壊した今でも、家は商売を続けることが出来ている。</p><p>しかし、「水商売の家」としての差別は自分たちの商店街からはなかったが、地域住民という視点では、確実にあったと私は思っている。</p><p><br />それでも商店街は、昔は一つの運命共同体であった。<br />七夕祭りでは商店街全体で七夕飾りを競い、お盆祭りには町会毎の山車の競い合った。<br /><br />商店街というのは協力体制を強いられるものだが、新参者を受け入れない組織でもある。<br /><br />比較的最近の話で、私が帰省の際、子供たちを連れて近場の観光地のペンションに泊まった際、そこの女主人は他所から来た新参者を受け入れない田舎の都会に住む人柄に対し怒りを示していたのを憶えている。<br /><br />そうなのだ・・・私が生まれ育った街は、差別と偏見によってコミュニケーションネットワークが保たれていた場所であり、おそらくは未だにそうなのである。<br /><br />しかし、それらの差別と偏見は、多かれ少なかれ日本のどこにでも存在するものではなかったのだろうか?<br /><br /><br /><br />戦国時代の武勇伝で言えば、天下は取るものかもしれないが、地域毎に統制を取るということは、地域行政であれば当然というか、どこからどこまでを統治下に置くかを決めてから統率者を選ぶということ、つまり地域の線引きが先に来ることが基本だと思う。<br /><br />つまりよそ者を受け入れないという部分から、協調性を作っていくのである。<br /><br />地域をまとめるという行為は、ピラミッドを作る行為に似ているのではないだろうか。<br /><br />先ずは元の大きさを決め、そこの範疇から頂点となる先端を狭めていく。<br />つまり、のし上がっていくのであり、下になる者を踏みつけていくのである。<br />ピラミッドは下の土台が崩れなければ、安定した力を保つことが出来る。<br />しかし、現代においては、おそらくいつのまにか、以前は土台として認識していた範疇の勢力が、支えになっていないはずだ。<br /><br />私が済んでいた商店街のコミュニティは、もちろん頂点ではなかった。<br /><br />しかし、商店街は決して末端の土台ではなかった。<br /><br />地域の末端は、在郷(ざい)と呼ばれる、近隣の農村だった。<br /><br />近隣の農村民に対する僅かばかりの優越感によって、商店街の商人たちは統率がとれていたのだ。</p><p>ざいの支持が得られなくなって商店街は崩壊した。</p><p>大資本による郊外の量販店のほうが、閉鎖的な商店街よりも支持されたのは当然かもしれない。</p><p>商店街は崩壊し、地域行政は都市再生に向けての施策を打ち出した。</p><p>それは商店街を丸ごと大手参入のショッピングモールにするというものであった。</p><p>商店街に住んでいた人間は、借金をしてテナントに入るか、移転地で隠居するかの選択を迫られた。</p><p>大手は採算が合わず、撤退した。</p><p>ショッピングモールは、再度再生機構に図られたが、それを救済したのは「ざい」のとりまとめである農協だった。</p><p>商店街と「ざい」の力関係は逆転しているのだ。</p><p>その場に暮らす人々はそのことに気づいていないのかもしれないが。</p><p>&nbsp;</p> http://ho-gas.com/trackback.php/20091025192645565