母のルーツ

母は幼少時代を川崎で過ごしたと聞く。
時代は戦時中だった。

母は、祖父の田舎に疎開をした。
そして、川崎大空襲で家は焼け、結局祖母と、母の姉も、祖父の田舎に引っ越してきた。

祖父はパプアニューギニアで軍用トラックの運転手をしていたらしい。
パプアニューギニアの現地の人のことを、祖父は「土人」と言った。
「土人」と呼ばれる原住民にイカを獲らせては刺身で食ったり、ココヤシの実を取らせては食べたことは、当時子供だった私たちに対する、祖父の自慢だった。
祖父のトラックは爆撃に遭い横転し、同乗していた仲間の兵士の多くは死んだが、運転していた祖父は宙を飛んで、草木の上に落ちたおかげで助かったらしい。

戦地から帰ってくると、家があった辺りは焼け野原だった。

家族が田舎にいることを知り、祖父は家族と再会したが、戦争が終わって、北海道の炭鉱に出稼ぎに行くことになった。

私はその炭鉱時代に撮られたと思われる写真をみた事がある。
小さい写真だったが、祖父はすぐに判った。
多くの写っている人物の頭の辺りが、祖父の肩の下だった。
祖父は大男だった。

祖母はリウマチ持ちだった。
私が憶えている範囲では、いつも怒っていた。
おそらく、体が痛かったのだろう。
祖母はよく私がインスタントラーメンを食べているときに、「ラーメンのスープは飲んじゃダメだ」と言っていた。
「砂が入っているから」だという。
今考えてみると、それはコショウのことだったが、当時は何故か、それを誰も教えてはくれなかった。

母の姉は、自称苦労人であり、母を学校に行かせるために自分は学校に行かず働いたという。
祖父は姉の見合いの相手を養子にした。
子供は娘が2人だけだったためだろう。
実際には母には弟がいたらしいが、ほんの小さいときに亡くなってしまったらしい。
そこで祖父は、母の姉の婿を事実上の代継ぎとしたかったのだろうが、結局は祖父の亡き後、葬儀代の残りほんの僅かな貯金を持っていかれただけであり、墓守は母が行うことになった。
母の姉夫婦には息子が2人いて、(後に私は姉の家で数ヶ月間お世話になることがあるのだが)2人の従兄は出来が良かった。
スポーツも、学業成績も、私達兄弟と比較にならないほど優れていた。
母の姉の結婚相手は、ビール工場に勤めていて、いつも目が赤い人だった。
祖父の葬儀の後、「この金はオレがもらう権利がある」と言っていたのを憶えている。

母は、その通帳を渡し、姉夫婦と縁も切ってしまったのだが、私自身は姉夫婦や従兄弟たちには色々とお世話になった経緯もある。

とはいえ、現状で会う必要性も、親戚付き合いをする必要性もないのも事実である。

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