1962

Atypical Ways

1958年、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表した。

 

1957年に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子はその年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、財界出身とはいえ初の平民出身皇太子妃として注目の的となったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミッチーブームより抜粋)

テニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行。

このブームが誰によって作られたのかについて私自身、さほど興味があるわけではない。
一つ言える事は、「時代は現代とはかなり違っていたようだ」ということぐらいだろう。

私の実家は北関東地方だが、私自身、物心つく前より、かなり長いこと「ご成婚の義」のカラー写真が壁面に飾られていて、私は、そこで着物を着ているお雛様のような女性が私の母親だと思い込み、何故かそれを疑わなかった。
隣の雛人形のような男に関しては、父だと思わなかったというより、全く興味がなかったのが、今思えば不思議であった。
その辺りの夫婦の関連性に係わる認知が欠落していたのかもしれない。
そのような状態であったから、この写真が当時の皇太子であったこと、隣の女性が美智子妃であったことは、小学生高学年くらいになってようやく気づいたことだった。

母と父は、テニスサークルで知り合ったという。
当時、テニスを趣味とするのは貧乏人では出来なかったかもしれない。
あるいは、岩戸景気に突入し、急速に経済が上向いていく中、父や母のような年代の人間にとって、そこにあるものをつかまえることはそれほど難しくなくなっていた時代であったのかもしれない。
父は、テニスのコーチだったそうである。
母は、学生時代はそれなりに男子学生達から人気があったと自負しており、ブロマイドやモデルを務めたと自称するパンフレットなども持っていた。
しかし、父とのなれそめについては何故か母の口から語られることはなかったし、私もそれについて興味があった訳ではないので、未だに知らずにいるのだが。
ちなみに父は1934年生まれ、母は1936年生まれだった。

私の兄は1959年生まれで、私より3歳上だった。
兄の専用のアルバムは、生まれたばかりでまだサルのようなしわくちゃな顔をしてお風呂に入れられている頃から、おそらく、私が生まれる少し前くらいまでの間の写真を、母の手でまとめられたもののようだ。

撮影者は、父だったのだろうか。

専用アルバムがあったのは、兄だけだった。
顔立ちはどちらかといえば母似であり、目鼻の均整がとれて、髪の毛は真っ直ぐでつやがあった。
後にデビューする美川憲一によく似ていて、当時家に住み込みで働いていたおねえさんたちは、兄をミカン箱の上に乗せてブラシをマイクに見立てて、芸能人ごっこをして遊んでいたらしい。
兄は家のアイドル的存在だったようだ。

私が生まれる前は、父も母もモボ、モガ(モダン・ボーイ&ガール)の仲間だったようだった。
母も現代女性と変わらず女性特有のミーハー感覚は存在していたようで、石原裕次郎、小林旭などにときめいたりしていた時期があったようだ。

父の若い頃は佐田啓二に似ていたと発言しているところからも、母は自身を岸恵子に自己投影していたのに違いない。

過去の写真から判断するに、父は成金のボンボンそのままだった。

祖父は戦時中の軍服需要から事業を成し、私有地を広げ、羨みか蔑みかは判らないが、近所からは「〇〇御殿」といわれていた時期があったらしい。

しかし志半ばにして祖父は亡くなり、祖母の管理下で父と、小児麻痺だった弟で洋品店事業を引き継いだ。

弟はのれん分けのように、他の地で細々とオーダーメイドテイラーを始めた。
(後に父の弟、伯父は私の成人式のためにスーツを作ってくれたが、私は結局成人式自体に参加しなかった)

父はかなり短期間で、祖父が築いた全てを使い果たしてしまったようだ。

私が生まれた1962年当時、既に家の中に現金はなかったのではないかと思われる。

生まれた当初の私の写真が1枚もないことから想像できることは2つ。

・私は父の子供ではなかった
・兄を撮影しまくった、カメラがなかった

残念なことに、3人兄弟の中で一番父親似だと言われるのが私であるから、(小さい頃はそう思っていたが)今となっては「私は父の子供でない」という仮説に、さほど執着はない。

だとしたら、それなりに高価なカメラという機械を現金化したと考えるのが、妥当な気がするのだ。

いずれにせよ、どちらを選んだとしても私が生まれた年に関する概念形成にプラスのベクトルとして作用するイベントとは考え難い。
付け加えておけば、その2年後に東京オリンピックを見るためにカラーテレビを買い、さらにその1年後、弟が生まれた際に新しいカメラを買っている。

母は弁解のつもりではないだろうけれど、父は「買ってきただけで金は払ってない」と後に言っていた。

しかし、それは私の写真が皆無である言い訳にはならないだろうとは思うのである。

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