Atypical Ways 非定型の道

死の概念

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局から発信される電波をある周波数に合わせて受信すると、ブラウン管に画像が映り、スピーカーから音声が流れ出る。
これがテレビジョンの基本的仕組み。

私が物心つく以前、おそらく生まれる前から家にはテレビがあった。
だからテレビの裏に回って、人が入ってないか確かめたことはない。
しかし、テレビの配信システムに関わる詳しい仕組みを理解していたわけではなかった。

テレビを見ることは、私にとっては自然な行為だった。
少なくとも、テレビは私に問いかけもしないし、反論もしないし、意地悪もしない。
テレビは私に何も望んでいなかったかのように見えた。

しかし、当時のテレビは一日中放送しているわけではなかった。

番組がない時間は、「砂の嵐」と呼ばれる、無受信状態の砂のうごめくような画像と、「ザー」というホワイトノイズが発生する。

私はこの「砂の嵐」が「死」だと思っていた。

「死」は恐ろしかった。

私は死にたくなかった。

死は何も見えず、何も聞こえず、息も出来ない。

何も考えてもいけない。
常にノイズが思考の邪魔をし、砂の嵐がイメージの視覚化を阻害する。
死は真っ暗ではなく、静寂ではなく、「無放送」であると思っていたのだ。
無放送は、意図的に誰かにもたらされたものであり、それはそこに埋没する観念、生き埋め、地獄。

私は死ぬことが怖く、「死にたくない」と泣いた。

死の恐怖に取り付かれ、さながら発狂したかのように毎日泣いていた。

母と兄が、2人で私に教えてくれたと覚えている。

「人間は死んだら、生まれ変わるから、(無放送)にはならないから、心配しなくていい」と。

  「輪廻」の考え方を、母と兄はどこから仕入れてきたのだろう?

また、それを本当に信じていたのだろうか?

私はそれを信じたかといえば、半信半疑であったことを憶えている。

たしかに魅力的な考えだ。

少なくとも、地獄のような苦しみではない。

私は私の墓にお参りをする母と兄の様子を想像することが出来た。
私はそれを見ることが出来る。

それがみられるのは、もしかしたら植物だからだろうか?

花は散るのがイヤだ。
木は、動けないし、固いからイヤだ。
ネズミはイヤだ。
嫌われているし、汚いところを歩かなくてはいけないし。
動物は皆イヤだ。
鳥も、イヤだ、肉はイヤだ。
血が出る動物はイヤだ。
ハエ?

ハエなら、外にも出られるし、家にも入れる。
もしかしたら母にハエ叩きで潰されて死んでしまうかもしれないが、少なくとも血は出ないのは知っていたし、死ぬときもあまり苦しんでなくて、ペチャンコに潰れてるだけのような気がした。

苦しくない動物に何度かなってから、人間に生まれ変わるのだ。

誰も知らない人間になり、その時母も私に気づかず、私も母に気づかないという。

 

私はそれがよく判らなかった。

私にとって、自己とは目に見えない自分であり、ターミネーターの視界の中の赤い世界だ。
(勿論、赤くはないし、文字も表記されないが)

私にとってはそれが全てであり、自分と他人、第三者という存在の観念が、上手く出来ていなかった。

現在、世の中で起こっている出来事と、テレビの中の出来事の違いがよく理解できていなかった。

世界は何故、私に係わってくるのか。

それにずいぶんと悩まされた。

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