Goodbye! Typicals World 定型世界への決別

自身を公開するということ

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ところで、私はこの自伝のような文章を公開することに対して、何を求めているのだろうか。

人は何故、自伝を書くのだろう?

ひとつには、自分を認めてもらいたいという欲望だろう。

それは自尊心ということかもしれない。

至らない点は反省し、至るまでの道程を書き記し、それを持って自己満足、いや、そのような自分を読み手に対し認知してもらう過程において、慰めになるということなのだろうか。

あるいは、自らの生き様を若輩に参考にしてもらいたいという思いからか。

だとすれば、自伝は自慢出来るような人生を送っている人が書くものということにはならないだろうか。

私は自伝を書くに値する人生を送ってきたのだろうか。

上の定義からは私は自分の過去を振り返ることは出来ない。恐れ多くも自分の半生を自慢できるものだとは思えないし、むしろそのうちの殆どの事柄は未だ乗り越えていないのだ。

年齢を重ねれば重ねるほど、新たな問題が出てくるようにも思える。
というよりも、むしろそれは当たり前なのではないかとも思う。

試練というものがあったとすれば、先に行くほどきつくなるのだ。

ならばやっぱり「自伝を書くという行為」は、今まで乗り越えてきた試練を書き連ねて、そこまで達していない若輩者たちの尊敬を勝ち取りたいということに繋がるのではないだろうか。

いや、実際にはそうではない。

先ず一つに、私はこれら恥ずかしい半生を書き連ねることによって、私自身が未だに突き止めることの出来ない問題、すなわち「私は何なのか?」ということについて、判断を仰ぎたいのだ。

とはいえ、考えようによっては惨めな告白を読んでいただいた皆さんの意見が全て正しいとは、失礼ながら全く思っていないのだが、客観的な価値観で、判断してもらいたいのである。

人の意見を全て受け入れはしないが、参考にしたいという、都合のいい話なのである。

また、私がここで過去をさらけ出したとしても、私と係わってきたこの文章の登場人物は恥を書くかもしれないが、それも私の匿名性がある程度確保されているとすれば、大した問題ではないかもしれない。

ならば公開することとしないことを秤にかければ、公開した際のメリットが勝るかもしれないではないか。

また、もう一つ、良い悪いは別にして、この文章は著作物である。

著作物は財産足りえる。

そこまで至らないとしても、これを読んだ人が、私が仕組んだアフィリエイトタグを踏んでくれたなら、レンタルサーバー代金くらいは出るかもしれない。

その程度といえば、その程度の想いから書き連ねているだけ、というのが本音である。

奇麗事をいうのはTypical World(典型的な世界)に済む人に任せようと思う。

少なくとも私はAtypikal(典型的でない)ことを認める代わりに、正直に話す権利が欲しいのである。

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