記憶

Atypical Ways

乳児期の記憶が鮮明に残っている人間が果たして存在するのだろうか。

もしいたとしたら、是非ともどんな感じであったのか訊いてみたいものである。

人間の発達的見地から考えて、仮に乳児期の記憶が鮮明であった人がいたとしても、それを言語的に説明することは大変難しい行為だと思われる。

残念ながら、私にははっきりとした記憶はない。

しかし、なんとなく、覚えているような気がすることとしては、その後何度も出てくる夢の中のイメージ、四角い中にツーンとすごく固い何かがあり、それが大きくなったり小さくなったりする。
それは恐怖であり、それが体内に入り込んでくると、体中が固まってしまう。
それを取り除こうと手足を動かすときの違和感が、頭を圧迫して、身動きをすることを許さない。
そして、その重量は増していき、その四角から発生した何か固いものに支配され、意識が遠のいていく。
これは小学校くらいに入っても、熱が出た際や、ふとした拍子に表れる、私にとってはかなり恐ろしい観念であった。

覚えている最古の記憶は、父に叱られているところかもしれない。
私は、母の乳を吸っていて、「いつまで赤ん坊みたいなことをしているんだ!」と叱られた。
それはいったい、何歳の頃の出来事だったのだろう。
怒る父、当惑する母、おそらく母に甘えていた私は、少なくともおっぱいを吸うことは出来なくなったのだということを理解する程度の知的発達があったように思う。
それは3歳年齢が離れた弟が生まれた後なのか、前なのかは定かではない。
弟が生まれているのにも係わらず、母のおっぱいを吸っているから叱られたのかもしれない。
あるいは、そんなことを許している母に対して、常識的逸脱を感じたのかもしれない。
いずれにしても、父は私にとって身近な存在であったことは一度もない。

弟が生まれた日は覚えているが、母が妊婦であったことは覚えていない。
それは母が妊婦時代に、私に対して「赤ちゃんが生まれるんだよ」なんていう話をしなかったのだろうか。
弟が生まれるというワクワクとした気持ちになったのは、その当日、産婆さんに行って母がいなくなった時に初めて表れたのか、それをたまたま覚えているだけなのかはよく判らない。
その産婆さんの家に当時6歳だった兄と向かったことを覚えている。
弟が生まれた時点で私は3歳4ヶ月だった。

道すがら、私の頭の中は「宇宙エース」でいっぱいだった。
内容は覚えていないが、たぶんその週に放送された話が感動的であったのかもしれない。
私は、「宇宙エース」のテーマソングを歌いながら、「宇宙エース」の映像を脳内で再放送をしながら、産婆の家まで歩いた。
当時、このアニメはモノクロ放送で、色が無いから、脳内の再放送にも色はなかった。
それは少し寂しかったのを憶えている。

当時のアニメは大好きだった。

よく憶えているものとしては、「風のフジ丸」「宇宙少年ソラン」「狼少年ケン」など。
鉄人28号」や「8マン」は殆ど覚えていないが、鉄人28号はプラモデルを持った写真があった。
8マンはふりかけのキャラクターであり、リュックサックを使った覚えがある。
おそらく私は乳児期から兄と一緒にアニメを見ていたと思われ、様々な品は兄のおさがりだった。

お手伝いの女性だったかもしれない。
産婆の元に歩いていったのは兄と一緒だった覚えはあるが、父が一緒だったかは覚えていない。

産婆の家に到着すると、母は小さな赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊に関する感想は、全く覚えていない。
たぶん、弟はサルのようであったと思うし、可愛くもなかっただろう。
それとは別に、既に母は私の弟を最も大事に思っていることには気づいたのであり、そのことが私の理性(というものがあったとしたら)の存在を破壊したかもしれない。
私は当時、弟のことを嫌っていたかもしれない。

父の思い出はほぼ、何もなく、それは単に覚えていないだけなんだろうと思う。
時折家にいる、男の人というくらいな認識はあったか。
父よりは、当時住み込みで働いていた女性、たぶん2人いたと思うが、たぶんその2人と一緒だったことが多かったのだろう。
黒ぶちのメガネをかけたやや太目のお姉さんが、よく私の相手をしてくれた。
かすかな記憶に、彼女の笑顔があり、私はその「おねえちゃん」にとても愛着を感じていて、彼女が店を辞めたときは、大変落ち込んだことを覚えている。

いずれにしても、父にとって私がどういう存在だったのかは未だに全く判らないし、私の記憶の中からは父に関するよい印象を思い出すことが出来ないでいる。
父は当時、まだ家にいたはずなのだが。

私は実家の階段で、このときを覚えていよう、と思い立った時のことを覚えている。
しかし何故、この時を覚えていようと思い立ったのかは覚えていない。
その時、家の雰囲気はとても暗かったのではないかと推測されるのだが、何故そのように決断したのかは覚えていない。

もしかすると、その時、父方の祖母が死んだのかもしれない。
先にも書いたが、当時私の実家は住み込みの雇い人も数人いて、中華料理店とバー両方の営業をしていた。

つまり、父はマスターであり、母はママだった。

父は祖父の死後、家業のテイラーに見切りをつけ、スポーツ洋品店の経営を始めた。
私が生まれた当初の頃の話である。
その後、おそらくは私がまだ乳児期のうちに、事業的に失敗し、水商売に切り替えたらしい。

そして、その直後に、祖母は亡くなったと聞いている。
1階の階段のそばにある洗面所に突っ伏しての、突然死だったようだ。
祖母が亡くなった当初は私はたぶん、1歳か2歳くらいだったと思うので、その話を聞いて、言葉として理解出来るようになってからのことなのかもしれないが、とにかく、私はその洗面所ではなく、そのそばの階段の上下真ん中辺に座り込み、一大決心をしたのである。
「今、この時、階段の途中に座っている自分の姿を、後々まで憶えておこう」と。

それは今でも憶えている。
ただ悲しいことに、その、そこに座っているシーンと、そう「憶えておこう」と決めたことだけしか憶えていないのであるが。

私がまだ歩けるようになったばかりの頃、バーの段差から落ちて手首を骨折した。
そのときは気づかなかったが、右手小指も骨折していたようで、それは未だに薬指側に15度程曲がったままである。
鉛筆を使うとき、タコが出来て嫌だったが、いまではキーボードを使うだけなので、タコはなくなった。
私は放っておくとそこらじゅうでケガをしていたらしく、危険だとの判断で、母がおぶい紐で背中にくくりつけ、店に出ていたのだそうだ。

そのせいで胸が圧迫されて、喘息になったのかもしれない、なんて後に母は言っていたが、「時代が違ってたらこの子は生きてない」と小児科の先生に言われたとも言っていたので、胸部圧迫による喘息誘導説は怪しいものといわざるをえないだろう。
いずれにしても、私のアレルゲンは後にハウスダストだったことも判った。

その、おんぶされていた頃よりもずっと後になると思うが、やはり幼稚園などに行く以前の記憶としては、私はアニメ漬けの毎日を送っていた関係もあり、ヒーロー系の夢をよく見ていた。

アニメのヒーローが出てくる夢ではない。
あくまでも自分がヒーローであり、私は悪い奴らをコテンパンに叩きのめすのである。
3歳かそこらの子供なのに、大したものだと思うが、所詮自分自身を客観的に判断出来る年でもなかったとも思う。

いずれにしても、私はおばあちゃんを悪の手先から救出する。
私は、おばあちゃんを背負って坂路を登るのだ。

その行為は3歳の子供には勿論無理だが、夢は重力制限がいい加減だ。

しかし、やはり重いことに気づき、欄干の杭を握ると、それはポキリと折れ、私は崖の下へさかさまに落ちていく。

そして悪夢が終わり、飛び起きるのだ。

そんな夢が何度も繰り返し出現していたように思う。

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