典型的な世界との決別と言っても、そこに特別な世界があるわけでもなく、今までと何ら変わらない世界を生きていくわけである。
社会的に変わらない自分、家庭的にも変わらない自分・・・
何故「典型的な世界」へ決別しなくてはいけないのだろう。
決別する必要があるわけではない。
「典型的な世界」なんてものは元々存在していない。
人間には「人として」の暗黙の了解=「典型の定義」があり、それを元に数々のコミュニケーションの手段を作り出しているといえるだろう。
それは実際のところ「典型的な世界」への幻想に他ならないのだが、仮にそれら暗黙の了解によってコミュニケーションを円滑に進めることが出来るとしたら、それを活用してもよいのではないかと思うだろう。
何故、「典型的な世界」への幻想を活用し続けてはいけないのだろう。
それは、「典型的な世界」への幻想に、不備があるからに他ならない。
「典型的な世界」とは、対極に「非典型的な世界」の存在を必要とする観念である。
その「非典型的な世界」を負の存在とすることによってのみ、「典型的な世界」は存在する価値を持ち得る。
「典型的な世界」という観念は、「非典型的な世界」を否定し、そこに住む人々を打ち負かす宿命にあるといえるだろう。
つまり、それは「非典型への差別」なくして「典型的な世界」は存在し得ない、ということになる。
差別のない「典型的な世界」は存在する意義を失ってしまうのだ。
そんな概念に価値があるだろうか。
執着する意味は全くないといってもいいのではないか。
では、再度問うが、何故、存在もしない、価値もない「典型的な世界」という概念と、あえて決別しなくてはいけないのか。
それはとりもなおさず、現状で「典型的な世界」という概念にどっぷりと浸かっている自分がいるからに他ならない。
で、最初に戻るが、「典型的な世界」に決別したとして、何が変わるのだろう。
周りの人間関係は全く変わらないし、相変わらず多くの人は「典型的な世界」の幻想を持って生きていて、その概念と決別しようとは思っていない。
自分だけがその概念を捨て去るとしたら、それは不利ではないのか。
では逆に、「典型的な世界」が元々存在していないことを知った上で、その概念にしがみつくとしたら、有利、不利とかの問題ではなく、「過ちを犯す」ということではないだろうか。
あえて「過ちを犯す」勇気があるのか。
仮にあるとして、その時点では既に「今までと同じ」ではありえないのではないだろうか。
「典型的な世界との決別」とは、能動的な行為なのだ。
前にも述べたように、「典型的な世界」を構築している人は「非典型」を信じている。
「典型的な世界」を否定することは、「非典型的な世界」を消失させることにも繋がると、私は考えているのである。