ピアノソナタ第21番変ロ長調D960における情景描写の仮説

これは2009年12月に書いたテキストを再度修正加筆(焼き直)したものです。

シューベルトのピアノソナタに関するレビューをを後ろから書いていこうと思いつつ、最初の一つ書いて丸2年放置してしまい(汗)いっそこれも書き直そうと思った次第であります。

晩年のピアノソナタ3部作(d958、d959、本作)の最後を締めくくる作品で、シューベルトにとっても最後のピアノソナタです。「遺作」なんていわ れてたりするようですが、遺作(レリーク、d840)とか、未完成(d759)とか、他にもいくつかあるようで、これは埋もれた作品を発見した方の宣伝文句だったのかもしれないし、単に当時一番古いと思われたものが次々に遺作としてデビューしたのかは知りません。とにかく紛らわしいですが、シューベルトにとって本当の意味で の遺作は歌曲集「冬の旅」のようであり、そういう意味では本作も「遺作風」くらいのネーミングが適当かと思われますが、それまた締りが悪いというか、それなら「最後のピアノソナタ」くらいにしたほうがいいでしょう。

シューベルトのピアノソナタの中でも最も多くの人によって演奏される曲の一つでしょうか。

それはやはり人気の曲であるといえるのかもしれません。しかし、この幻想的なピアノソナタは、18番(まさしく幻想という副題のつく!)に比べてある意味トランス状態のような、より覚醒的というか、鎮痛剤を服用した後のような、つまり根底には根深い「痛み」を現しているかのような作品です。

実際にこの作品を書いたのは晩年(といっても31歳ですが)であること、その際の痛みは彼自身の当時としては不治の病「梅毒」の痛み、治療の痛みというよりは心の痛みであったのではないかと思いますが、この作品の中で痛みを治療しているといえるのではないかと思うのです。それは同様の心の痛みを持つ人々にとって「鎮痛剤」としての効果をかもし出すのでしょう。それがこのソナタの人気の秘密ではないかと思います。

シューマンが「天国的な長さ」と評したのはハ長調交響曲第9番「ザ・グレイト」(D.944)だったようだが、何故かこの曲も「天国的」と評されているケースが多いように思います。
元々、「天国的~」というのは誉め言葉ではなくて「退屈になるほど長い~」という含みがあるのかもしれません。
シューマンがそういった含みを持って「グレイト」を評したのではないかもしれませんし、この曲を聴いた視聴者が感ずるところの「シューベルトは天国的?」ということについても私自身はさほど興味はありません。
しかし、シューマンの意図はともかく「シューベルト=天国」の図式は実際にあるような気がしますし、「癒しのシューベルト」という効果は実際にあると思います。

村上春樹氏が『海辺のカフカ』の中で、「不完全で天国的に冗長で、すべてのピアニストが例外なく二律排反の中でもがく」と、登場人物に評させているらしい(というのも私自身実際に読んでいないので定かではないのですが)それはどうやらピアノソナタ第17番ニ長調(D.850)の第2楽章のことらしいです。

噂というか、元の情報が彎曲しているケースはネットのlogに限りません。
人間という生き物は悲しいもので、そういわれるとどうしてもそう聞いてしまいます。これはしろうと理論を形成する元概念であるかもしれません。
私も例外ではなく、この長い長い第一楽章を聞く前からそういう意味での天国的刷り込みイメージが最初からあった訳です。
だから第1楽章の主旋律に続く低音トリル部分に対して納得がいかず、おそらく・・・この作品はこのトリル部分にシューベルトのキーワードの一つ「痛み」を表現したのではないか、と考えました。しかし、その仮定によると、やはりこの作品は感情表象に成功しているとは言い難く、多くのピアニストはどう思ってこの曲を弾いているのだろうか?なんて思っていた訳です。
(私はピアノ弾きませんので・・・単なる妄想の域を出ませんが)

つまり、おそらく21番は偉大なる失敗作、不完全なつぎはぎだらけの曲なのか、ビートルズのアルバム「アビーロード 」のようなものか、なんて思っていたりした訳です。(バカにしている訳ではないので誤解のないよう。私もつぎはぎ(コラージュ)的傑作という意味でアビーロード は好きなアルバムの一つです)

イメージとしては、死を意識したシューベルトがその痛みの中でときおり痛みが和らぐ際に、天に昇るかのように安堵し、今までの記憶、後悔、懺悔、楽しかった思い出、そして美しい思い出が霞みつつある意識の中で、走馬灯のように噴出する。しかし左手のトリルで表現された痛みによって現実に戻される、「自分はまだ生きている、そして苦しんでいる」と。
まあ、こんな解釈をしていた訳です。
しかし、こんな解釈だと、第一楽章以外の説明がつきません。
そこで先の村上春樹氏ではないが、多くの人はシューベルトのソナタは不完全で、完璧ではない、という説によって納得をしてしまうのではないでしょうか。(少なくとも私はそうでした)

しかし、先日真夜中にipodでこの21番を聞いていた際、唐突に、それらの解釈は間違っていたのではないだろうか?と思い当たりました。

このソナタの一貫したテーマは、「残響」あるいは、「ディレイ効果(音を遅らせて反復再生すること)」です。
言葉を変えれば、それは反射を意味します。つまりその反射は「こだま」であり、対象は「山」、若しくは、「水」ではないかと。

そして、この反復の遅れ「ディレイタイム」は、「天空」つまり気体ではなく、液体、ようするに、「水面」低音トリルは「波紋」。

イメージは、「湖畔」ではないでしょうか。

この解釈によって、全ての楽章のイメージが統一されると思います。

第一楽章

変ロ長調って特殊な響きを持っているように感じます。
この残響効果、救急車や列車などで実感出来る様に、遅れた音が自分の耳に到達し、通り過ぎていく際には音は低くなって聞こえるという効果を狙って作曲されたのでしょうか。この曲は天国的というよりも、アインシュタインの相対性理論的であるようにも思えます。
テーマは「水」、(しかも湖)。季節は判りません。第4楽章が冬なら、春になるのでしょうか。しかし第2楽章が夏かというのにも疑問が残るので、この解釈は保留にします。
とにかく長い曲です。時間の遅れを表現する上で、これ以上短くすると「単なる美しい曲」に成り下がってしまうため、この長さはどうしても必要になってくるのでしょう。

しかし、湖のほとりを歩いている情景をイメージしながら聴けば、長さは全く気にならないし、むしろ短すぎるくらいでしょうか。
以前、この曲は天空を目指して上昇したり、落下したりする曲ではないかと思っていたのですが、その概念を少しばかり変えて、波紋がゆっくりと長い時間をかけて、湖畔に伝わる時点で小さな波になる、こういう情景をイメージしてこの曲を聴いてみれば、いかがでしょうか。
とても穏やかな気持ちになれるのではないでしょうか。

そして第2楽章。
一言で言えば、「沈痛」。
あるいは、「暗黒」とても言えば良いのでしょうか。
これほど落ち込んだ曲も少ないと思います。
あまりにも「痛み」のイメージが先行してしまって、聞きたくない人もいるのではないでしょうか。
それは先の、「天空」に昇る前の痛み、いわば「最後で最大の痛み」を無意識的に連想していたからなのですが。
実際には、この曲のテーマは「夜の湖」であったとしたら、どうでしょうか。
痛みではなく、第一楽章同様、穏やかで美しい湖畔であり、暗黒に包まれた恐怖。
それは未知なものに対する恐れであり、神秘的な恐怖といえるでしょう。
そこにはいくらかの「希望」もあるのかもしれません。
前編を包み込むディレイタイムは第一楽章に比べてとてもゆっくりとしたペースになっていますが、その残響の戻り値が鐘の音を連想させはしないでしょうか。

私は、リストが「ラ・カンパネラ」を書いたとき、この曲のインスピレーションを早回ししたのではないか、などと勝手に連想しましたが、もちろん定かではありません。

第3楽章
第2楽章の重厚さに比べればずいぶんとセンチメンタルというか、中途半端に可憐な曲なのかと最初は思っていました。
しかし、これは中途半端な曲ではなく、知的な幼さに関わる曲、つまり若さへの情景なのではないでしょうか。
子犬のワルツのようではありますが、実際のターゲットはやはり人間でしょう。おそらくはシューベルトの憧れ対象は女性であり、テーマは湖畔でのデートかもしれません。
実際にデートしたかは定かではありませんが、火遊びならぬ、水遊びであり、遊びの要素で楽しい曲調に仕上がっているのでしょう。
残響効果、フラッシュバック効果というか、反射、エコー、音のやまびこ効果を存分に発揮させるために3拍子というのはとても効力を発揮するというか、正確にはワルツのリズムではなく、3拍残像なのですね、譜面を読んだわけではないのでよく判りませんが、同じ音が同じ大きさで返ってくるのが演奏として正解なのでしょう。トリプルフラッシュバックとでもいいましょうか。循環ではなく、繰り返しによるトラウマの消滅、治癒効果とてもいいますか、そのような意図も感じます。美しく、とても情愛に満ちた曲でありながら、計算されつくしたとても技巧的な楽曲、というのが正解でしょうか。
とはいえ、シューベルトはこの曲を作る際に誰かインスパイアされたモデル(女性)がいたのではないかとも思うのです。
そして、そのモデルの女性の美しさと脆さ、可憐かつ稚拙でさえあるその人となりを描き出す際に、曲の完成度が低いというよりはその女性の完成度(成熟度?)が低いという仮説も成り立つように思います。
シューベルトはおそらく、そういった不完全な人間らしさを含めた全てを描き出すことによって、全方向性の愛というか、そういった表現をしたかったのではないだろうか。なんて思ったりもする訳です。

第4楽章
一言で言えば、変な曲です。
イントロドンで言えば即興曲(d899)第1番ハ短調と間違えるが、変ロ長調なんですね。
これは、Wikipediaによればベートーヴェンの作品130弦楽四重奏曲の第二のフィナーレ冒頭の変形であるらしいが、元の曲を聴いたことないのでなんとも。
一貫したテーマの水、(湖)は凍っているかのようでもあり、左手の伴奏はスケートの進行、もしくはアメンボのように右左に進んでいるかのようです。
左手の主旋律はぎこちなく、犬の散歩のようでもあり、転げているようでもある。
そういう意味でこの楽章のみ季節を「冬」と勝手に決めつけてしまいました。

(後で変更するかもしれませんが)

しかしその後(第2主題というのか不明)の展開はドラマチックで、まるで突然にオーケストラがやってきたかのようです。
3連のアルペジオが降り注ぐのは花びらなのか、雪なのか、雨なのかは判らないが、人間の情動を超えた何か、自然の力みたいなものを感じずにはいられないのだが、やはりここでもシューベルトは最終的に人間的な情念で持って、超越的な美しさを台無しにしてしまう、と思うのは私だけでしょうか。
19番第四楽章の悪夢の再来、シューベルトの原型は「さすらい人」なんだろうな、なんて思ってしまう訳です。
それゆえにある意味、演歌的なのか?人気の秘訣なのか?知らないのですが。

これはこれで素晴らしいんだが。
洗練された中に必ず無骨さも取り入れるというか、そういう部分が人間味とされる所以でしょうか。
とてつもなく繊細で感傷的かと思えば、それを平然と踏み躙る不器用さ、だからやっぱりシューベルトはココロのボスなんだな~と思います(謎)

  最後の遺作として盛り上げてしまうと、「不完全」かもしれないが、残響効果を実験的にチャレンジした意欲的な職人芸と考えれば、シューベルトは後世に残るものすごく良い仕事をしたんだと思うし、別にシューベルト自身がこのピアノソナタを自らの集大成的「遺作」として書いた訳でもないと思うのです。

そのような刷り込みを一度リセットした上で、再び聞いてみてはいかがでしょうか。

ちなみに私のおきに入りはこれです。

 

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