晩年のピアノソナタ3部作(d958、d959、本作)の最後を締めくくる作品で、シューベルトにとっても最後のピアノソナタであり、「遺作」なんていわれてたりするらしいのだが、遺作(レリーク、d840)とか、未完成(d759)とか、他にもあるし紛らわしいんだけど、勿論いずれの作品も本当の意味での遺作ではない。
シューマンが「天国的な長さ」と評したのはハ長調交響曲第9番「ザ・グレイト」(D.944)だったようだが、何故かこの曲も「天国的」と評されているケースが多いような気がする。
元々、「天国的~」というのは誉め言葉ではなくて「退屈~」という含みさえあるかもしれない。
シューマンがそういった含みを持って「グレイト」を評したのかは定かではないし、さほどシューマンに興味もないので、「シューベルトは天国的なのか?」ということについても興味がない。
しかし、シューマンの意図はともかく、シューベルト=天国の図式はひとり歩きしてしまったような気がする。
村上春樹氏が『海辺のカフカ』の中で、「不完全で天国的に冗長で、すべてのピアニストが例外なく二律排反の中でもがく」と、登場人物に評させているらしいのだが、それとて読んだわけでもなく、それはどうやらピアノソナタ第17番ニ長調(D.850)の第2楽章のことみたいなんだけど、噂というか、元の情報が彎曲しているケースはネットのlogに限らない。
人間という生き物は悲しいもので、そういわれるとどうしてもそう聞いてしまうのである。
私も例外ではなく、この長い長い第一楽章を聞く前からそういう意味での天国的刷り込みイメージが最初からあった訳である。
だから低音トリルに対して納得がいかず、おそらく・・・多くのピアニストも納得がいってないんじゃないだろうか、なんて思っていた訳である。
(私はピアノ弾きませんので・・・単なる妄想の域を出ませんが)
おそらく21番は偉大なる失敗作、不完全なつぎはぎだらけの曲なのか、ビートルズのアルバム「アビーロード」のようなものか、なんて思っていたりした訳である。
イメージとしては、死を意識したシューベルトがその痛みの中でときおり痛みが和らぐ際に、天に昇るかのように安堵し、今までの記憶、後悔、懺悔、楽しかった思い出、そして美しい思い出が霞みつつある意識の中で、走馬灯のように噴出する。しかし左手のトリルで表現された痛みによって現実に戻される、「自分はまだ生きている、そして苦しんでいる」と。
まあ、こんな解釈をしていた訳である。
しかし、こんな解釈だと、第一楽章以外は説明がつかない。
そこで先の村上春樹氏ではないが、多くの人はシューベルトのソナタは不完全で、完璧ではない、という説によって納得をするのだろう。
しかし、先日夜中にipodでこの21番を聞いていた際、唐突に、それらの解釈は間違っていたのではないだろうか?と気づいたのである。
このソナタの一貫したテーマは、「残響」あるいは、「ディレイ効果(音を遅らせて反復再生すること)」なんである。
そして、この反復の遅さは、「天空」つまり気体ではなく、液体、ようするに、「水面」低音トリルは「波紋」だろう。
イメージは、「湖」だろう。
この解釈によって、全ての楽章が統一される。
第一楽章
変ロ長調って変。この残響効果、救急車や列車などで実感出来る様に、遅れた音が自分の耳に到達し、通り過ぎていく際には音は低くなって聞こえるのである。この曲は天国的というよりも、アインシュタインの相対性理論的である。
テーマは「水」、(しかも湖)なので、時間の遅れ表現する上で、この長さが必要なのであって、これ以上短くすると「単なる美しい曲」に成り下がってしまうのであろう。
とにかく長い。
しかし、湖のほとりを歩いているとイメージしてみれば、全く退屈はしないはずである。
とにかく、この曲は天空を目指して上昇したり、落下したりする曲ではない。
ゆっくりと長い時間をかけて、何かが水面を進んでいるのである。
波のない、穏やかな、美しい曲である。
そして第2楽章。
これほどまでに沈痛な曲は少ないと思う。
あまりにも痛いイメージが先行してしまったので、以前はあまり聞きたくなかった。
しかしそれは先の、「天空」に昇る前の痛み、いわば「最後で最大の痛み」を無意識的に連想していたからである。
実際には、この曲のテーマは「夜の湖」なのである。
痛みではない。
第一楽章同様、穏やかで美しい。
そして怖い。
それは未知なものに対する恐怖であり、神秘的な恐怖だろう。
第3楽章
中途半端に可憐な曲?
いや、これは中途半端な曲ではなく、知的な幼さに関わる曲なのである。
子犬のワルツではない。大人の女性、湖畔のデート。
実際にデートしたかは定かではないが、火遊びならぬ、水遊びであろう。
残響効果、フラッシュバック効果というか、反射、エコー、音の山彦効果を存分に発揮させるためにはテンポを守らなくてはならない。
名演は少ないような気がするが、この第3楽章と次の第4楽章はテンポが守られていさえすれば、本当に美しく、計算された技巧的な曲なのであるが。
どうも第一楽章でバテてしまっている演奏家が多いような気がするのは私の聞きまつがいであろうか。
シューベルトは曲を作る際に誰かインスパイアされたモデルがいるんだろうなと思うのである。
そして、そのモデルの女性の美しさと脆さ、可憐かつ稚拙でさえあるその人となりを描き出しているのであって、曲の完成度が低いというよりはその女性の完成度が低い?訳である。
しかし、シューベルトはおそらく、そういった不完全な人間らしさを含めた全てを描き出すことによって、全方向性の愛というか、そういった表現をしたかったのではないだろうか。
当事者的に受け入れられたのかは不明。
(似顔絵は似ていないから受け入れられる)
第4楽章
変な曲である。
イントロドンで言えば即興曲(d899)第1番ハ短調と間違えるが、変ロ長調なんである。
これは、Wikipediaによればベートーヴェンの作品130弦楽四重奏曲の第二のフィナーレ冒頭の変形であるらしいが、元の曲を聴いたことないのでなんとも。
一貫したテーマの水、(湖)は凍っているかのようでもあり、左手の伴奏はスケートの進行、もしくはアメンボのように右左に進んでいるかのようだ。
左手の主旋律はぎこちなく、犬の散歩のようでもあり、転げているようでもある。
しかしその後の展開はドラマチックで、まるで突然にオーケストラがやってきたかのようだ。
降り注ぐのは花びらなのか、雪なのか、雨なのかは判らないが、人間の情動を超えた何か、自然の力みたいなものを感じずにはいられないのだが、やはりここでもシューベルトは最終的に人間的な情念で持って、超越的な美しさを台無しにしてしまう、と思うのは私だけであろ
うか。
19番第四楽章の悪夢の再来、原型は「さすらい人」なんだろう。
それゆえにある意味、演歌的なのか?人気の秘訣なのか?知らないんだが、これはこれで素晴らしいんだが。
洗練された無骨さというか、知的なブ男というか(失礼)
とてつもなく繊細で感傷的かと思えば、それを平然と踏み躙る不器用さ、だからモテない?
やっぱりシューベルトはココロのボスなんだな~と思う(謎)
最後の大作みたいに考えるといかがなものかというのはつきまとうとしても、別にシューベルト自身がこのピアノソナタを「遺作」として書いた訳でもないだろうし、これも残された人たちが創り出した勝手な刷り込みなんである。
最後の遺作として盛り上げてしまうと、「不完全」かもしれないが、残響効果を実験的にチャレンジした意欲的な職人芸と考えれば、シューベルトは後世に残るものすごく良い仕事をしたんだと思うのであった。