光と美佐子の結婚は無理だと思ったが、誰もそのことを指摘しなかった。
それを指摘していれば、何かが変わったのかも不明だ。
「皆で頑張れば、なんとかなる」
家族はそう考えることにした。
この概念は、「皆で頑張らなかったら、うまくいかない」という意味でもあったし、「誰かが、頑張っていないように見えたら、失敗する」という意味でもあった。
落とし穴は、「何を」「どのように」「なんとかする」のが、「頑張っていること」なのか、具体的に提示されていないことだ。
ゴールを決めずに皆で何について頑張るのかが判らない。
それについて話し合わずに、「既定の概念」に任せて自主的に頑張ることにしても、その頑張りを誰が判定してくれるのか。
自分なりに頑張ったとしても、個々の「既定の概念」はバラバラだ。
「皆で頑張れば、なんとかなる」
この概念が成就するためには、「既定の線引き」を先ず、するべきだった。
彰子が思うのは、光は何故、この女である必要があったのかということ。
その前に、光にとっての理想的な女性とはどういう存在なのか。
そんな問いかけの答えはどうでもいい。
自分でないことだけは確かなのは判ったし、それだからといって嫉妬するものでもなかった。
ただ、彰子が、美佐子を好きになる理由を、自分からは何も見出せなかっただけに過ぎない。
自分はウタコの面倒を見ることに頑張ろう。
そして、光のためには、美佐子との関係が少しでもマシになるよう、注意をしてあげよう。
それ以上に何が出来るのか。
とにかく、「頑張る」以外に方法は思いついていなかった。
「何を頑張る」のが最良なのか、そのあたりを深く考えていなかっただけだ。
彰子には美佐子のだらしなさが我慢できなかった。
こんなにだらしない女は今までの知り合いにはいない。
比較しても仕方がないが・・・
前の光の嫁もだらしなかったと感じていた。
若者はある程度、だらしないものなのかもしれない。
でも、美佐子と比較すれば、もう少しは「常識的」だったような気がした。
少なくとも、注意をすれば「嫌な顔」をするくらいの「常識」があった。
美佐子に関しては、注意に対する「既定の反応=常識的」と彰子が感じていた反応さえなかった。
自分がバカにされているのかと感じた。
バカにされているのではなく、それが美佐子の「素」の反応だということを納得することは、彰子の今までの対人関係から理解を見出すことは無理だった。
光はわがままで甘えっ子に育てたと思う。
だとしても、根本的に美佐子とは「資質」が違うような気がした。
単に、光以外に子供が一人増えたと思えばなんとかなるのだろうか?
冗談じゃない。
息子の嫁と同居するということは、子供が一人増えるということではない。
だらしない他人が一つ屋根の下に行動を共にしなくてはいけないということ。
・・・我慢出来ない。
ウタコが可哀想だとしても、その母親の美佐子は可哀想ではないどころか、極論を言えば、赤ん坊を苦しめている悪人なのだという理屈も成立するのである。
一つには子供を不幸にしていること。
一つには息子を道連れにしていること。
一つには自分を含め、家族を巻き込んでいること。
さらに悪いことには、それらが罪深いことだと全く気づいていない「素振り」をしていること。
実際に美佐子自身が、「罪深いことをしている」ことに「気づいてない素振りをしている」というのは、本当なのか。
本当かもしれないし、正しくないかもしれない。
美佐子の行動は、結果的に人を混乱させた。
最初から計画的に人を困らせてやろうと思ったことは美佐子自身考えていないと思う。
そういう意味では、美佐子は案外と素朴で、悪気はないのかもしれない。
それは美佐子の常識が欠落していることから起こる、非常識な行動の結果とすれば・・・
「愚」という観念が脳裏に浮かぶ。
しかし、時代背景的に自ら学のないことをコンプレックスに思う彰子の既定の概念では、「愚」とは「恥」であり、「卑」でもある。
「卑」を排除して戦後生き残ってきた彰子にとっては、美佐子を受け入れるだけの度量が育っていなかったということか。
美佐子にはその非常識な行動を「恥じる」だけの「ゆとり」がなかっただけかもしれない。
訂正する前に、次のシチュエーションが始まってしまう。
美佐子の「人生と」いう本に誤字脱字があっても、「訂正とお詫び」を挟み込んだことがない。
ただ、それだけのことかもしれない。
その段階が通り過ぎて、美佐子は初めて自己弁護の必要性に気づく。
そして、その一連の流れから、人は美佐子がわざとやったように考えてしまう。
美佐子は、最初に「注意力」が足りない。
次に、「判断力」が足りない。
それだけなのではないか。
それは言葉にしてみると、彰子が自分に足りないと日頃思っているものと、なんら変わらない。
何に対して可哀想だと感じるか。
それは人それぞれということになるが、美佐子も充分に「可哀想」と言われる資格は持っていると思う。
但し、分別のある大人という「既定の概念」の中では、美佐子は完全に不利だ。
子供を作る能力があれば、「立派な社会人」と分類される。
それが、彰子の理解している「常識」だった。
しかし、現実には健康であれば子供を作ることは出来るし、「立派な社会人」という定義は穴だらけであり、どういう人間が立派なのかは彰子にだって判ってはいなかった。
「既定の概念」は、彰子の弁護をしてくれるような気がした。
彰子の気持ちの中に根強くある観念は、「自分だって能力的に人と比べて劣っている部分はあるけれど、それを努力で補ってきたんだ」という自負であった。
仮に頭が悪いのだとすれば、それ以上に努力をしなくてはいけない。
それが彰子の知っている「既定の概念」だった。
美佐子を許せというなら、ハッキリとした理由が欲しかった。
認定書、鑑定書を見せて欲しい。
そして、「自分だって劣っている」という認識。
その時点では彰子自身、気づいてはいなかった。
彰子の「既定の概念」の中で、うっすらと読むことが出来る概念。
それは紛れもなく、「既定外」というレッテル。
「既定外は排除する」という概念であった。
今回、「既定外の人間は、努力を見せている期間、既定に準ずる」という補遺を付け加えた。