母方の祖父は、ざい(在郷)の出身だった。
城下町に住む人間たちからすれば蔑まされた血筋の出身という差別的含みはもしかするとあったのかもしれないが、空気を読むニュアンスの中で決して直接的に語られることはなかったと思う。
一つには、祖母が水戸藩の武家の家系であったということにも関係しているのかもしれなかった。
確かに、祖父の結婚式の写真は田舎のそれではなかったが、その辺の事情を山の中のお城跡に住む町人達が知っていたかは判らない。
仮にそれを知らなかったとしても、一度は上京し(実際は川崎)一旗あげて家庭を持ち、戦争でやむなく田舎に疎開の後、町に出で家を建て、単身出稼ぎの後、地域の工場で働き、娘を進学させているという時点で、地域社会においてはむしろ見事に成り上がって故郷に錦を飾る新興勢力の一端だったのかもしれない。
受け入れるとも受け入れないともつかない位置に、祖父の家、つまり母の実家はあったのだろうか。
商店街のボンボンと結婚した母と、同じようにざい出身の、工場勤めの男と結婚した、母の姉とでは世界観が全く違っているような気がしたが、その違いは配偶者によるものか、あるいは役回りによるものか。
それとて何がいいとか、悪いとかは判らず、一ついえることは、姉妹のどちらかといえば祖父は比較的母の近くにいたのではないかということくらいだった。
私にとっても、祖父は特別の存在であった。
祖父は必ず道の向こう側から歩いて来た。
私は祖父が近づいてくるのをずっと見ていた。
グレーのスーツにソフト帽でメガネをかけた祖父は、当時私が知っている世界において一人だけ別の生き物のようで、人一倍ノッポの祖父が近づいてくる遠近感の奇妙さにその都度魅せられた。
祖父は必ず、「〇〇か?」と私の名前をいった。
私は、「おじいちゃん?」といった。
祖父はうなずいた。
私も、うなずいた。
そして、祖父は去っていった。
実際にはそれだけじゃなかったのかもしれない。
しかし、私はそれしか憶えていなくて、祖父が突然あらわれて、私の名前を呼び、私はうなずくのだ。
それはとても心地よい行為のように思えた。
祖父と同じ種類の人間はいないように感じた。
祖父は比較的近所に済んでいたが、子供の頃憶えている範囲では私たちの家の敷居をまたいだことは一度もなかった。
逆に、祖父の家に母と、私達子供が遊びに行くことは頻繁にあった。
磨かれた廊下で、靴下でスケートのようにすべって遊んだ。
祖母に叱られ、祖父はいつも黙って笑っていた。
祖父は、私を養子にしたいといっていたようだ。
しかし、実際にそうはならなかった。
それは何故、3人兄弟の中で私をそうしたかったのか、また、何故実際にはそうしなかったのか、判らない。
いずれにしても、祖父は私に対して、特別に考えてくれていた唯一の存在のように私も思っていた。
私は祖父が好きだったし、たぶん祖父も私のことが好きだったと思う。