ざい(在郷)

私が生まれ育ったのは北関東の城下町だ。
城下町とは町名に特有の名前がついた場所がある。
鍛治町、倉内町、材木町、上街、中街、下街など。

 

下街に私の実家はあった。
通りの並びには洋品店、食堂、食料品店、パン屋、花屋、酒屋、カメラ屋、床屋、靴屋、焼肉屋、喫茶店、和菓子屋、時計、眼鏡屋、銭湯、パチンコ屋、映画館などがあった。
その中で私の家は中華料理店と、バーだった訳だ。

商店街の中で飲食業というのはランクが低い商売だ。
水商売という言葉がある。
勝負は水物、水は低いほうに流れる。
母はよく、「食べ物屋は一番景気に左右されないんだ」と言っていた。
おそらく、母なりの弁明だったのだろうと思うし、実際に商店街が事実上崩壊した今でも、家は商売を続けることが出来ている。

しかし、「水商売の家」としての差別は自分たちの商店街からはなかったが、地域住民という視点では、確実にあったと私は思っている。

それでも商店街は、昔は一つの運命共同体であった。
七夕祭りでは商店街全体で七夕飾りを競い、お盆祭りには町会毎の山車の競い合った。

商店街というのは協力体制を強いられるものだが、新参者を受け入れない組織でもある。

比較的最近の話で、私が帰省の際、子供たちを連れて近場の観光地のペンションに泊まった際、そこの女主人は他所から来た新参者を受け入れない田舎の都会に住む人柄に対し怒りを示していたのを憶えている。

そうなのだ・・・私が生まれ育った街は、差別と偏見によってコミュニケーションネットワークが保たれていた場所であり、おそらくは未だにそうなのである。

しかし、それらの差別と偏見は、多かれ少なかれ日本のどこにでも存在するものではなかったのだろうか?

戦国時代の武勇伝で言えば、天下は取るものかもしれないが、地域毎に統制を取るということは、地域行政であれば当然というか、どこからどこまでを統治下に置くかを決めてから統率者を選ぶということ、つまり地域の線引きが先に来ることが基本だと思う。

つまりよそ者を受け入れないという部分から、協調性を作っていくのである。

地域をまとめるという行為は、ピラミッドを作る行為に似ているのではないだろうか。

先ずは元の大きさを決め、そこの範疇から頂点となる先端を狭めていく。
つまり、のし上がっていくのであり、下になる者を踏みつけていくのである。
ピラミッドは下の土台が崩れなければ、安定した力を保つことが出来る。
しかし、現代においては、おそらくいつのまにか、以前は土台として認識していた範疇の勢力が、支えになっていないはずだ。

私が済んでいた商店街のコミュニティは、もちろん頂点ではなかった。

しかし、商店街は決して末端の土台ではなかった。

地域の末端は、在郷(ざい)と呼ばれる、近隣の農村だった。

近隣の農村民に対する僅かばかりの優越感によって、商店街の商人たちは統率がとれていたのだ。

ざいの支持が得られなくなって商店街は崩壊した。

大資本による郊外の量販店のほうが、閉鎖的な商店街よりも支持されたのは当然かもしれない。

商店街は崩壊し、地域行政は都市再生に向けての施策を打ち出した。

それは商店街を丸ごと大手参入のショッピングモールにするというものであった。

商店街に住んでいた人間は、借金をしてテナントに入るか、移転地で隠居するかの選択を迫られた。

大手は採算が合わず、撤退した。

ショッピングモールは、再度再生機構に図られたが、それを救済したのは「ざい」のとりまとめである農協だった。

商店街と「ざい」の力関係は逆転しているのだ。

その場に暮らす人々はそのことに気づいていないのかもしれないが。

 

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