プロローグ その7 ボーダーラインの尺度 – なりゆき主夫のリアルな日常 – 楽天ブログ(Blog)

光彦と美佐子の結婚には無理があった。
勿論、誰もそのことを指摘しなかった。
それを指摘していれば、何かが変わったのかも不明だ。
「皆で頑張れば、なんとかなる」
家族はそう考えることにした。
この概念は、「皆で頑張らなかったら、うまくいかない」という意味でもあった。
そして、「誰かが、頑張っていないように見えたら、失敗する」という意味でもあった。
この概念にある落とし穴は、「何を」「どのように」「なんとかする」のが、「頑張っていること」なのか、具体的に提示されていないことだ。
ゴールを決めずに皆で何について頑張るのかが判らない。
それについて話し合わずに、「既定の概念」に任せて自主的に頑張ることにしても、その頑張りを誰が判定してくれるのか。
自分なりに頑張ったとしても、個々の「既定の概念」はバラバラなのだ。
「皆で頑張れば、なんとかなる」
この概念が成就することはない。
雅子が思うのは、光彦は何故、この女である必要があったのかということ。
その前に、光彦にとっての理想的な女性とはどういう存在なのか。
そんな問いかけの答えはどうでもいい。
自分でないことだけは確かだろう。
そんな雅子が、美佐子を好きになる理由は、何もなかった。
自分が頑張ることは、花子の面倒を見ること。
そして、光彦のためには、美佐子との関係が少しでもマシになるよう、注意をすること。
それくらいしか思いつかなかった。
とにかく、頑張る以外に方法は思いついていなかった。
雅子には美佐子のだらしなさが我慢できなかった。
比較しても仕方がないが、こんなにだらしない女は今までの知り合いにはいない。
前の光彦の嫁もだらしなかったが、もう少しは「常識的」だった。
少なくとも、注意をすれば「嫌な顔」をするくらいの「常識」があった。
しかし、美佐子に関しては、注意に対する「常識的」と雅子が感じていた反応がなかった。
バカにされているのかと感じた。
バカにされているのではなく、それが美佐子の「素」の反応だということを納得することは、雅子の過去の対人関係からは無理だった。
光彦がわがままで甘えっ子だとしても、根本的に「資質」が違うような気がした。
単に、光彦以外に子供が一人増えたと思えばなんとかなる?
冗談じゃない。
子供が一人増えるよりも、だらしない他人が一つ屋根の下に行動を共にするのは我慢が出来ないことなのだ。
花子が可哀想だとしても、その母親の美佐子は可哀想ではないどころか、極論を言えば、赤ん坊を苦しめている悪人なのだという理屈も成立する。
一つには子供を不幸にしていること。
一つには息子を道連れにしていること。
一つには自分を含め、家族を巻き込んでいること。
さらに悪いことには、それらが罪深いことだと全く気づいていない「素振り」をしていること。
実際に美佐子自身が、「罪深いことをしている」ことに「気づいてない素振りをしている」というのは、本当なのか。
本当かもしれないし、正しくないかもしれない。
美佐子の行動は、結果的に人を混乱させた。
だとしても美佐子自身、最初から計画的に人を困らせてやろうと思ったことはなかった。
それは美佐子の非常識な行動の結果だった。
その非常識な行動を「恥じる」若しくは「非常識だと気づく」だけのゆとりがなく、常に次のシチュエーションが始まってしまう。
その段階が通り過ぎて、美佐子は初めて自己弁護の必要性に気づく。
そして、その一連の流れが、人は美佐子がわざとやったように考えてしまうのだ。
美佐子は、最初に「注意力」が足りない。
次に、「判断力」が足りない。
それだけなのだ。
それは言葉にしてみると、雅子が自分に足りないと日頃思っているものと、なんら変わらない。
何に対して可哀想だと感じるかが人それぞれということになるが、美佐子も充分に「可哀想」と言われる資格は持っていた。
但し、分別のある大人という「既定の概念」の中では、美佐子は完全に不利だった。
子供を作る能力があれば、「立派な社会人」と分類される。
それが、雅子の理解している「常識」だった。
しかし、現実には健康であれば子供を作ることは出来るし、「立派な社会人」という定義は穴だらけであり、どういう人間が立派なのかは雅子にだって判ってはいなかった。
「既定の概念」は、雅子の弁護をしてくれるような気がした。
雅子の気持ちの中に根強くある観念は、「自分だって能力的に人と比べて劣っている部分はあるけれど、それを努力で補ってきたんだ」という自負であった。
仮に頭が悪いのだとすれば、それ以上に努力をしなくてはいけない。
それが雅子の知っている「既定の概念」だった。
美佐子を許せというなら、ハッキリとした理由が欲しかった。
障害があるなら、認定を見せて欲しい。
そして、「自分だって劣っている」という認識。
その時点では雅子自身、気づいてはいなかった。
雅子の「既定の概念」の中で、うっすらと読むことが出来る概念。
それは紛れもなく、「既定外」というレッテルだ。
「既定外は排除する」という概念であった。
雅子は「既定の概念」の中に、「ボーダーラインは、常に自分よりも下に引く」という文字が書いてあることを認識していなかった。
認識していないがために、訂正する必要も感じることはなかったし、自分の尺度も測ったことはなかったのだ。
つづく
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