私が「小児喘息」から「気管支喘息」と認定されたのは小学3年生の時だった。
診療室も小児科から内科へ変わった。
大人になった気分?
いや、別に得意げになることでもなし。
でも、毎週母に病院に連れて行ってもらったことは案外得意げになることだったかもしれない。
歩いていくには遠い病院だったし、家には車はなかったので、母は毎週タクシーを呼んだ。
豪華?
いや、前にも書いたが、昔から車は嫌いなのだ。
しも仕方がないので毎週タクシーに乗った。
減感作療法という、肩にメスで細かく切れ目を入れ、薬を塗りこむ治療を行っていた。
その治療が良かったのか悪かったのかは今となっては判らないが。
治療は楽しくなかったが、「少年ジャンプ」を買ってもらうのが楽しみだった。
治療との因果関係があるかどうかも判らないが・・・
この頃私は一気に巨大化した。
太ったのだ。
私の肩には妊娠線?がある。
短期間で巨大化したために、細胞が裂けたのだった。
いや、皮膚が割れるとは思ってなかったし・・・(汗)
学校では、よく遊んでいた子達とはクラスが別になった。
その子達とは遊ばなくなった。
その後、毎日遊ぶような友達は出来なかった。
学校はよく休むようになった。
近所の、同級生の女の子の家が燃えた。
お父さんと弟が黒焦げになってしまった。
その子はめっきり話をしなくなった。
相変わらず、イジメたり、イジメられたりはしていた。
女の子をからかったり、からかわれたり、
足の悪い子をみんなでいじめたり、
ちょっと風変わりな特徴のある子を、よってたかって泣かせたりした。
とても嫌な記憶は、忘れずに残っているものだ。
そして、自分自身も他の子たちに同じように泣かされたりしていた。
強い子には泣かされ、弱い子は泣かす。
目には目を?
いや、朱に交われば赤くなるというべきだろう。
とにかく、体も弱かったが、心も弱かったのだ。
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とにかく、私は生まれた当初から産婦人科で気管の弱い子供だと言われていたらしい。
世が世なら、「死んでる」ということである。
実際に当時は喘息で死ぬ子供は珍しいことではなかった。
そして、私も発作が起きるたびに死ぬかもしれないと思った。
その苦しみを言葉で表現すれば・・・
鼻の穴塞いでストロー加えてジーっとしてれば、大体そんな感じか?
それで死ぬような気がするかは疑問だが・・・(汗)
いずれにしても、その死への恐怖が強烈に私自身が「生きる」ことへこだわりとなったのかもしれない。
あいにく、私は既に40数年生きることが出来た。
感謝するべきか?
いや、生きている事に感謝する暇があったら困っている人を助けるほうがましだ。
でも・・・
私は忙しいのだ!!(悪)
いや、冗談ではなく・・・(汗)
私の娘もしっかり喘息を受け継いでいる。
そういう意味では。やるべきことは、喘息を知らない人よりは判っているつもりだ。
しかし、実際には同じ「障害」は存在しない。
太郎も喘息であるが、認定は受けていない。
実父(亡くなった妻の弟)も喘息の薬を医者から貰っていた。
その症状は、私の知っている喘息とは全く異なるものである。
咳以外には、発作らしい発作は起きないのだ。
そういう場合、対処の仕方、予防法も微妙に異なると思われる。
しかし、どう異なるのかは、自信がない。
それが障害というものに関わることの難しさだと思う。