チープな服 – なりゆき主夫のリアルな日常 – 楽天ブログ(Blog)

子供の障害と向き合うことは辛いことだが、それを見てみぬふりをしたら子供が辛くなるだけだ。
大人が思ってる以上に子供は強い。
だからといって、子供に大きなストレスを与えていれば、子供が壊れてしまう。
子供に障害があるという現実を認めてやらなければいけない。
先天的、後天的、どちらでもいいことだ。
大人の都合で子供に無理強いするよりは、子供の成長の手助けを少しだけしようと思うべきだ。
私が苦しんできたことは、子供達には関係のないこと。
私の望むように子供が育っていないとして、子供を望みに当てはめるよりは、先ず望みを子供に合わせることが大事だ。
そこがズレていると、いつまでも望みがかなわない。
子供の将来を心配するのは当然だ。
しかし、子供の現在のほうがもっと重要だ。
将来ダメな大人になってしまう。
このままだと、社会に通用しなくなる。
それはたしかにそうだと思う。
だから、色々と試行錯誤して、子供のために色々と考え、行動するべきなんだ。
ただ、その中で必要ではないこと。
うんざりしたり、落ち込んだり、
ごまかしたり、イライラしたり。
子供に大きな服を着せるべきではない。
いつかは着られるようになるかもしれない。
でも、その服はあきらかにブカブカなのだ。
子供の現状を理解し、今日ピッタリの服を与えてやる。
明日はちょっとだけ大きくなっているかもしれない。
そうしたらまたちょっとだけ大きな服を与えてやる。
いつも新しい服を着せてやる。
そうすることが成長にはとても大事なのだ。
しかし、それだけの(気持ちの)ゆとりがないから、大きな服を着せてしまう。
似合わない服を。
そんな服に、私は嫌気がさしてきたのだ。
それが現実だとしたら、チープな服でいいじゃないか。
見栄や世間体のために取り繕う必要などない。
実際にはそれがジャストサイズなんだ。
子供の障害は、周りの目だけでなく、自分自身の障害と再び向き合うことを強要する。
それは辛いことだ。
今まで忘れてきたことだし、それでなんとか生きてきた。
しかし、それを蒸し返しても、再度向き合わなくてはいけない。
神の試練ではない。
自分自身、誤って見につけた護身術のボロが出ただけのこと。
直すのだ。
なんとかして。

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