平等ってのは・・・高慢だってことか? – なりゆき主夫のリアルな日常 – 楽天ブログ(Blog)

昨日は昼飯が2時過ぎになってしまった。
妻が昼食の準備をしている間に、次女が帰ってくる。
2人で昼食中に次女が色々と話しかけてくる。
案外と、こんな当たり前の事が珍しい日常だ。
飛行機と電車はどっちが長い?など、他愛もない話をしていた。
唐突に、「本当のおにいちゃんとおねえちゃんは、前?」と訊いてきた。
「前って何?」
「本当のおにいちゃんとおねえちゃんは、もう前?」
「そうだよ、今のおにいちゃんとおねえちゃんより、前だよ」
本当のおにいちゃんとおねえちゃんとは、2卵生双生児の子だ。
7ヶ月の早産だった。
私の実家の墓に眠っている。
名前もある。
届出上、必要だったのだ。
「なんでちゃーちゃんの家みたいにしてないの?」
仏壇のことだ。
「ちゃーちゃんの家に、一緒にいるからいいんだよ」
「でも、写真がないよ」
「写真は、撮れなかったんだよ」
「なんで撮れなかったの?」
「そんな暇はなかったのよ」
「すぐに生まれなければよかったね」
「そうだね」
次女にしてみれば、何気ない質問なんだろうけど、私たちにしてみれば、楽しい思い出とは言えない。
今家にいる長女と長男は、この2人の代わりのようなものかもしれない。
このことを知っている人間は、そう思っていると思う。
しかし、実際には、決して同じではない。
同じ人間には、なり様がないのだ。
しかし、それも重要なことではない。
運命?宿命?それもどうでもいいことだ。
「おねえちゃんとおにいちゃんが来る前は、とうたんに怒られなかったよね」
「それは、おまえがおねえちゃんとおにいちゃんと同じように悪いことするようになったからだよ」
これも少し嘘だ。
次女は殆ど悪いことをしたり、怒られるようなことをしていない。
次女だけを叱らないことによって、意地悪されないように、全員の責任として、叱るように気をつけているのだ。
それにしても怒りすぎているのかもしれない。
少し反省。
「大きくなると、だんだん悪いことをしたくなってくるかもしれないから、しないように気をつけるために怒っているんだよ」
「は?い」
本当のおにいちゃんとおねえちゃんが存在していたという思いが、現存の長女と長男に関する思いを複雑にしている部分もあるのだろう。
この子は、私のことを「とうたん」と呼び、長女、長男は、「穂高さん」と呼ぶ。
これを変えるべきではなかったか?
しかし、話し合いの結論は、世間体は「おとうさん」にするが、法律上は「義兄さん」ということだ。
この複雑な関係を、長女、長男とも、今のところ上手くやっている。
次女との関係は、伯母さん、伯父さんということになることは良く判っていないようだが。
エディ・ゲレロとチャボ・ジュニアみたいなもんか?
悩んだ時に、エディのDVDを見せてやればいいだろう。
(判りにくい例えですみません)
「本当のおにいちゃんとおねえちゃんが生まれてから、(自分が)生まれるまで、長いね」
「ああ、長いね」
「(自分が)生まれたとき、うれしかった?」
「・・・ああ、嬉しかったよ」
次女の、赤ちゃんのころの写真を見せてやった。
「これが生まれた日の写真だ。変な顔だろう?」
「ぎゃはははは」
妻が、成長記録をきっちりとつけていた。
足型、手型、授乳記録、みんなに抱っこされている写真、泣いている写真、初めて立ったときの写真。
この子が、事実上私たちの最初の子供であり、唯一の子供なのだ。
この子に対する責任は、私たち夫婦だけの責任だった。
長女と長男の成長記録は、実家に置いてきたままだと思う。
母子手帳くらいしか持ってきていないかもしれない。
私もよく知らないのだ。
アルバムを持ってきたらどうかと妻に言ったことがある。
でも、「ちゃーちゃんが見たいかもしれないし、実家に置いておくことによって、帰ったときに見たいかもしれないじゃない」
それもそうかもしれない。
そんなことをしていたら、長男が帰って来た。
長男は、次女のアルバムを何気なく見ていた。
そこに、自分の小さい頃の写真を見つけた。
「これって?」
「そう、おまえだ、まだ3歳くらいじゃないかな」
長男は少しだけ嬉しそうだった。
しかし、自分のアルバムが家にないことにも気付いたはずだ。
義母はよく、「この子達は幸せだと思う。これだけいろんな人たちに囲まれて、皆が親身になって大事にされている子供はいないんじゃないか」と言う。
私も「そうですね、そう思います」と言う。
長女と長男には、多くの親代わりがいる。
戸籍上は義母が母親だ。
同居していた長男夫婦も親代わりのようなものだ。
現在では私たち夫婦が親代わりのようなものだ。
そして、多くの親戚がこの子達のために色々とよくしてくれている。
次女の心配は、誰もしていない。
私たち夫婦がいるから、その必要が、ない。
しかし、実際には長女にも長男にも私たちがいる。
いるけれども、本当の親ではないし、本当の子供ではない。
本当の兄弟のようだが、本当の兄弟ではない。
これらは事実だが、これもどうでもいいことだ。
長女と長男と、私が共有してきた時間はまだまだ、次女と私が共有してきた時間と比べると少ない。
それだけのことだ。
今後、それらの時間的比率の差は、限りなく無くなっていくはずだ。
しかし、その差を埋めるべく、長女と長男に拘わりすぎて、次女のことを疎かにしているような気もする。
そんなことを気にもしていないような日常のそぶりだが、実際には子供なりに考え、判断していることが多いのだろう。
平等ってのは・・・・非常に難しいと思う。
夜、長男が、次女宛てに来ている保育園の先生からの年賀状を見ている。
次女が後ろから覗き込んでいる。
「見せてやりなさい」というと、長男、はがきをぶん投げる。
私もかっとなり、叩く。
長男、泣く。
「ごめんなさい」と言いながら、子供部屋に行き、バタンと戸を閉め、叫んでいる。
私は追いかけて、毛布に包まっている長男を引きずり出し、再び叩く。
「何故叩かれたのか判るか」
後は誘導尋問だ。
自分が同じ事をやられたときに、どう思うか、そういうことをした自分を、どう思うか。
長男は、次女に対して嫌がらせをしたこと、ふてくされてはがきを投げたことを認める。
後は何故ドアをバタンと閉めて、叫んだかだ。
「何ていったんだ?」
「・・・・」
誘導尋問に乗ってこない。
「とにかく、オレの目を見なさい」
「おまえが悪いことをしていたのはおまえもわかってるし、オレもわかっている。なぜおれが怒ったと思う?」
「悪いことしたから」
「そうだ、おまえが悪いことをしたら、オレは怒る。怒らなかったら、おまえのことはどうでもいいということだ。だから怒った。おまえはダメな大人になってもらいたくない。いい大人になってもらいたいから怒ったんだ」
「おまえを叩いたのと、怒ったのは悪かったな、もう怒ってはいない、なんて言ったのか言ってごらん」
「・・・・」
「ふざけんじゃねえこのやろうっていったのか?」
「ちがう」
「(次女)ばっかりって言ったのか?」
「ちがう」
「じゃあなんていったの」
「・・・・」
「忘れたのか?」
「おぼえてる」
「いってごらん」
「・・・・」
頑固な野郎だ。
「わかった、今日はこれで寝なさい。明日になって、言えれば教えてくれ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私は子供の気持ちが判っていない。
子供ともっと遊んであげなければいけないのに、現実から逃げているのは、私の方なのだ。
叱っているばかりでは、なんの解決にもならない。
何故ふてくされたかなんて、どうでもいいことだ。
長男を追いつめてしまったのは私の責任だろう。
答えられないのには理由があると思う。
その理由を作ったこと自体が私の責任だろう。
明日になれば、なんのことはなく、話してくれるような気もする。
妻に、一部始終を話して、もし、言わないようだったら、機嫌が良さそうな時に何気なく聞いてくれと頼んだ。
そして、私が現実から逃げているようだったら、オレを叱ってくれと頼んだ。
所詮、一番、弱っちいのは私自身なのだ。
情けないが、そういうことだ。
最後まで読んだ皆さんにも、申し訳ない。
気分?・・・・良くは・・・ないです。

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