お世話になりました。その1 – なりゆき主夫のリアルな日常 – 楽天ブログ(Blog)

昨日書こうと思っていた日記のネタを妻に憶えているか聞いてみた。
「オレは何の日記を書こうと思っていたんだっけ?」
どうやら、私に自信を与えてくれた諸先輩方のことらしい。
妻の記憶力が抜群なのか、それでも、あまり思い出さない私の脳が危険なのか、不明。
アルコールは脳細胞を破壊する。
適度な摂取に留めるべきであろう。
最初は長男のことを話していたようだった。
最近、ちょっと気になっているのだ。
性格の悪いところがムクムクと湧き上がってきているような気がすること。
それを、妻と話していたようだ。
妻からすれば、殆ど気にならないことらしいのだけれども、私から見て、微妙に陰湿な態度が頭を持ち上げて来ているような気がしているのだ。
実際問題として、長男は家に来てから、良くなった。
家に来る原因は長女ではなく、長男が荒れていたからなのだ。
物を盗む、乱暴する、悪態をつく、近所から家庭内暴力とまで噂され、やってられなくなった原因は長男にあった。
それまで、長女がちょっと変わってることに、気付いてもいなかった。
とにかく、長男が何故そんなに荒れていたのかが未だによく判らない。
荒れていた原因はどこかにある。
「過ぎたことはいいんじゃないの?」と妻はいう。
しかし、本当にいいのかというと、良くないような気がする。
環境が変わり、荒れた心境が浄化されたのかもしれない。
が、単に沈静化しているだけなのかもしれない。
私たちの気付かないところで悪魔になられても困る。
もっとよく、知っておかなくてはいけないことだと思うのだ。
で、話し合った結論としては・・・
私がもっとよく面倒を見るということですか。
あんまり変わり栄えのしない結論ですが。
それしかないでしょうな。
その方法としては、後ほど発表出来るといいのですが、今のところ思いついておりません。
そして、その後、私自身の子供時代の話から、天才理論、私のお世話になった人たちの話等をしていたんだった。
自分自身がどこで凹んで、どこで自信を持っていったのかということ。
自慢話かよって・・・・たぶんそのとおりです。
私はつくづく自分好きな奴です。
そのお世話になった方々のエピソード等について書いていこうかと、階下のPCに向かったらしい。
それなのに、何故か「尻から血」日記・・・やっぱりヤバイですか。
ま、今日はそのうちの一つのエピソードを書きましょう。
尻つながりという訳ではないが。
私は高校は夜間で、昼間は医療機関の雑用人として働いていた。
夜間高校というと、お年を召された方は、「苦学生ですね」と言い、若年層の方は「アホですか?」という、あれだ。
弁明をすれば、私は中学は半分以上欠席している。
アホには違いないが、アホの種類は微妙に違っております。
その医療機関は、全国的に有名な?肛門科だった。
院長先生は、痔や大腸がんの学術論文、一般の方向けに痔の本を書いたりもしていたと思う。
私の当時の仕事といえば、ゴミ当番から始まり、レントゲン、検査の助手、フィルムの現像、ファイルの整理、先生の講義の際、人体標本モデル?などなど。
はっきりいえば、暇だった。
医療機関での私
当時の私でございます。
手に握っているのは、ペンではありません。
また、私は手術の傍ら、先生の合図とともに、接写レンズのついた一眼レフカメラで、パシャっと肛門写真を撮っていた。
肛門専門カメラマンだった訳だ。
私は、(肛門カメラマンとしては)かなり腕が良いらしかった。
医療現場で求められたこと、それは、ミスをしないということ。
私は、ミスは少なかったのだ。
殆ど喋りもしない、かなり自閉気味の私を院長先生は、真面目に働き、ミスの少ない点を評価してくれた
医療関係に就職するつもりがあれば、援助するから勉強したらどうだという、ありがたいお言葉も頂いた。
しかし、私はその助言を蹴り、高校卒業と同時に、東京のデザイン学校に進学することにしたのだ。
何故かというと・・・その頃は、偏見だらけで頭も悪く、直ぐに救急隊員とやってしまい、妊娠して辞めて行く看護士達と付き合っていくのに、うんざりしていたのだ。
そして、実際に現場では、死、家族の悲しみ、色々と辛い側面も見てしまった。
こんなところで、一生働くなんて冗談じゃないって思っていた。
今となっては・・・アホな決断かも?と思うときも、時には、ある。
私は実質3年半程そこで働いた。
勤務日数もあと僅かという頃、私は院長先生のお供で、新幹線に乗って東京にやって来た。
かなり珍しい直腸ガンの検体の撮影と、出版する肛門関連の図書の打ち合わせに同行し、帰る前に、日本料理屋のカウンターで、白魚の踊りをご馳走してもらう。
そのとき、先生が私の今後について、「君はデザインの仕事は、うまくやれると思う。真面目で我慢強く、几帳面に仕事をこなす人間が、デザインの仕事には向いているんだ」と言った。
クリエイティブでないんですが。
(後に、先生の言うとおりだということは実感しましたが)
とにかく、私は良い評価をされたってことだ。
これが、私の心の支えになった一つのエピソード。
結局、私はデザイナーにならなかった。
色々な職業を転々として、現在は、無職に限りなく近い??
いや、後悔はしていないです。
でも、お世話になった先生には、報告出来ることは未だにしていないと思っている。
恩返し出来る日は来るのかわからないが、頭の中には常にあることだ。
「人に良くして貰ったら、その本人に恩返しするのではなく、他の人に良くしてあげるべきなのだ。それが本当の恩返しというものなのだ」
たしか、先生はこんなようなことを言っていたような気がする。
この言葉を出来るだけ守っていこうとは思っている。
そのため、恩を受けた人に対して、プレッシャーを感じたことはないし、御礼もしない。お歳暮もださない、年賀状も出さない。
それくらいはしとけって?
人によっては、頭にも来るか。
で、他の人に良くしてあげるべきってこと。
ま、これも中々難しいんですけど、プレッシャーを感じない程度に、頭の片隅に置いています・・・

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